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渾沌/秩序の両方に開かれたこころとからだ
すべてはバランスから
こころとからだをつなぐもの。それは自律神経である。自律神経という神経ネットワークによって、無意識のレベルでこころとからだは調整されている。神経の中では古い部類に入る自律神経は、それゆえ人間にとっては基盤となるような大事な機能を担っている。人間は生物進化の頂点に立っているが、自律神経という無意識のシステムによって支配されているという意味では、下等動物となんら変わりがないのだ。
人間は大脳皮質を爆発的に発達させた。そのためか、思考や行動、判断といったものの一切合切が脳の情報処理によって行われているように思われているようだが、これは単純な誤謬である。人間においてもほかの生きものと同様に、大脳皮質に頼らない情報経路をもっている。まさに脳から自律(=オートノミー)した神経なのである。
自律神経は、交感神経系と副交感神経系の二つからなる。この二種類の自律神経は相互に関係していて、どちらか一方が独立して働くということはない。つまり、交感神経が活発化する時には、副交感神経の活動は抑えられる。逆に、副交感神経が活発化する時には、交感神経の活動は抑制される。自律神経は常に両者の相互作用によって活動しているのである。
白血球がこの二つの自律神経の支配下にあるという事実を発見したのが安保徹氏だ。白血球は免疫機能を担う細胞で、病気やけがをした時に活躍する。その生体防御機構である白血球が、じつは交感神経と副交感神経の強い影響下にあるということを安保氏は突きとめたのである。
白血球は、赤血球と同じように体内を動き回る細胞である。白血球は、マクロファージ、顆粒球、リンパ球の三つからなり、細菌類やウイルスが進入するとその場所まで行って攻撃を加える。体内を循環することによって、常に生体を監視し続けているわけだ。ところが、自律神経の支配を受けている白血球が、逆に自律神経を支配する場合がある。安保氏は、「働きすぎ、飲みすぎ、こころの悩み」に共通するものは、交感神経の絶えざる緊張だという。白血球の顆粒球が増加すると、その死骸が活性酸素を多量にまき散らすことになる。それが、からだの組織や細胞を破壊する。つまり、自律神経が逆に白血球によって支配されてしまう。これが極端に進んだ場合に起こるのががんである。
顆粒球、リンパ球の量で、その人のおおまかな体調を予想することができるという。
「正常の人の平均値は顆粒球が約六○%、リンパ球が約三五%。それが、交感神経優位にある人の場合は、顆粒球が約七○%、リンパ球が約二五%。一方、副交感神経優位の人は、顆粒球が約四五%、リンパ球が約五○%となる。そして、この関係は、その人の体調とも相関します。交感神経優位の時になる症状には、肩こり、腰痛、便秘、食欲不振、高血圧、痔、歯槽膿漏、不眠などです。一方、副交感神経優位の時になる症状は、鼻水が出る、からだがかゆい、蕁麻疹、元気が出ない、アレルギー疾患などです。」
ムリして働きすぎると顆粒球が増加する。歯槽膿漏や痔、腰痛は顆粒球が増えることで起こる病気だ。反対に、リラックスしすぎると蕁麻疹や花粉症などの、アレルギー疾患が起こる。どちらに傾きすぎてもいけないわけで、重要なのはそのバランスである。けがをして傷口が発熱し赤く腫れあがるのは、血流を増やし組織を修復する生体反応である。自ら必死で治そうとしているのだから、消炎鎮痛剤を使うのは逆効果、根本的な治療にはならない。こういう発想こそ、安保氏の考えの真骨頂である。
安保氏の主張する「原因療法」とは、簡単に言えば、自律神経が本来もっているメカニズムを使って、病気を治すことである。バランスが崩れるから病気になる。ならば、反対にバランスをとり戻してやれば回復するはずだ。安保徹氏は無能唱元氏との共著『免疫学問答』(河出書房新社)で、がんでさえもバランスをとり戻せれば治ると主張する。がんにならないためには、「いつもニコニコ副交感」の状態になることをこころ掛けようという。もっとも、副交感神経優位に傾きすぎてもよくないことは言うまでもない。「こころを鍛える」ことによって、副交感神経支配の生き方に傾きすぎないようにすることも大事だ。
安保氏が「こころを鍛える」と言っても、彼自身強調するように、決して精神論的な視点からそう言っているわけではない。これはれっきとした科学的知見にのっとった主張なのである。こころとからだをつなぐもの、それを「自律神経とはっきりいわなければダメ」だと安保氏が強調するのも、まさしくこの考えがサイエンスだと確信されているからだ。
ヒトの「元気」はどこからくるのか
内臓感覚の重要性。『談』では以前「内臓感覚の復権」というテーマで座談会を行ったことがある(『談』no.53特集食の哲学……ガストロノマディズム、一九九六)。故三木成夫氏の解剖学的内臓論を「内臓感覚」という視点からもう一度掘り下げてみようという意図で行われた。三木成夫氏は、動物器官と植物器官という対立軸を立てて、脳と内臓・心臓の対立と矛盾を見据えたうえで、前者が後者を支配してきたところに近代の倒錯性の根源を見た。そして、その優位関係の逆転の意味を独自の進化論的発想から説いた。この座談会は、私たちに、植物器官、内臓系をベースにした新しい身体観の必要性を強く促した。
福土審氏の研究は、脳が消化管をコントロールしていると考えられてきた従来の考え方に対して、消化管が脳をコントロールしていることを示そうというものだ。もとより、どちらが先か後かということではなくて、消化管と脳は相関関係をもっているという事実を明らかにしようとしているのである。三木氏の内臓感覚への傾斜は解剖学的裏付けによるものではあったけれども、それはいささか直観的すぎた。それに対して、福土氏の知見はあくまでも実験によって得られたものである。しかも、興味深いのは、バロスタットという機器を使用して、消化管の運動と知覚の測定をしていることだ。これまで難しかった被験者の感じている内臓知覚を、バロスタットによって直接測定できるようになったのである。その結果どんなことがわかったか。
これまでたぶんに個人の「気分」の問題と考えられていたIBSの患者さんは、実際に腸の知覚が敏感であることが了解されたのである。つまり、IBSの患者さんはストレスによって症状を感じるのは単に神経質だからであり、「症状を気にしなければいい」と医者に言われ続けてきたのだが、じつは神経が細かいといった気持ちの問題ではなく、実際に腸が敏感に反応していることが立証されたわけである。
IBSの病態の特徴は、一つにストレスによって発症・憎悪することがあげられる。となると、次に問題となってくるのは、ストレスによって発症・憎悪することと腸の知覚過敏がどう関連しているかである。
「IBS患者の場合、健常者に比べると、CRHによって誘発される消化管の運動の程度が非常に強く、またCRHの負荷に対する副腎皮質ホルモン刺激ホルモン(ACTH)の反応性も高いのです。つまり、CRHという物質によって、ストレスによる消化管運動の変化と心理的な異常は説明できそうです。」
つまり、なぜ人は消化管刺激によって不快感をもつのか、ストレスとの関連で深くかかわる物質があることが解明できるかもしれないということだ。それが特定できれば、ストレス、脳、消化器の関係はより明確になるだろう。そうすると、次のような疑問も生まれてくる。消化管に不快を感じない時は調子のいい時なのではないか||。
「QOLの調査によれば、IBSの患者さんたちが何に苦痛を感じているかというと、まず、自分が健康であるという全体的健康観と、それを実感できる精神的な健康観がもてないことなのです。そういった感情がQOLを非常に低下させている。そもそも消化管というのは、とても古い臓器です。脳のかなり古い部分とおそらく密接に結び付いていて、自分が元気だという感覚、要するに情動の深い部分に強い影響を与えてしまうらしい。」
私たちは、おなかの調子がいい時、「元気」と感じるのかもしれない。まさしく、「快便快食は元気のしるし」なのだろう。内臓感覚はそのままQOLと直結しているのであれば、それはそのままこころの問題でもあるのだ。こころの「元気」はどこからくるのか、それはおなかからやってくる。
パンドラの箱を開けてしまった私たち
「性同一性障害の問題が注目されるようになってよかったなと思うのは、少なくとも自分自身についてもそうでしたが、これまで性欲とか性行為とかそういうことでしか性という問題を考えてこなかった中で、性にはもっと違う面があるということを皆が認識したり、議論したりし始めたという点です。」
性同一性障害を医学的治療対象と認めた決定は、単に医療行為としての性転換手術の可能性へ道を開いただけではなかった。山内俊雄氏が指摘するように、性そのものが広がりをもったものであり、人間にとって深い問題を孕んでいる事実を私たちに投げ掛けたのである。性の問題というと、性の指向や行為にばかり関心が集まる。しかし、そもそも性とはどういうものか、あるいは、なぜ男/女という違いが存在するのかといった根本的な問題がある。とりわけ、性差は性そのものを決定づけている重要な要素であると同時に、社会を成り立たせている大きな柱でもある。そうした性差が、性の問題として議論の対象になる道を開いたことは大きな一歩なのである。
「性器の異常や性欲対象の異常といった問題は扱っていましたが、ジェンダーというのは性の問題からまったく欠落していたんですよ。だから、そういう問題を投げ掛けることができた、という意味では非常に画期的だったといえるんじゃないでしょうか。」
ジェンダーを性の問題として捉え直す。このことは、私たちが考える以上に大きな意味をもつ。なぜならば、ジェンダーというとこれまでは「ジェンダー研究」とか「フェミニズム論」といったように、どちらかというと社会学的な観点から捉えられてきた。ジェンダーを性の問題として、さらには、医学の対象として考えるということはほとんどなかったという。
ここで、ジェンダーという言葉の使い方について補足しておきたい。山内氏は著書『性の境界』(岩波科学ライブラリー)の中で、ジェンダーには三つの使い方があるという。一つは、「性の自己意識・自己認知」。インタビューで言われているのはもっぱらこの意味で、自分の性別を男/女であると感じたり、男/女と認めたりすることである。「心理的・社会的性」と呼ぶこともある。二つめは、生物学的性別のことで、形態や機能のうえから区別できる雌雄をいう。とくに生物学では、「性的二型」と呼ぶこともある。三つめがいわゆる「社会学的・文化的に形づくられた性別」。これは、男/女が異なる性として人為的・社会的につくられるというだけでなく、男性優位の形でつくられ、位置づけられるという意味ももっている。すなわち、最初から性差別的な視点が包含されている。したがって、生物学的性別は不変であるが、社会的につくられたジェンダーは変わりうるものという認識があり、そういう観点から議論されているのが「ジェンダー研究」や「フェミニズム論」である。注意しておきたいのはこの第三の立場だ。生物学的性別は不変であると言ったが、この立場の中には、生物学的性別の基盤となる生物学、あるいは生物学を含む自然科学それ自体が男性優位の概念枠を形成していると主張する研究者もいるからだ。「性的二型」そのものがすでにそうした色眼鏡によって潤色されたものであるというのである。自然科学は男によってつくられたものである限り、実証的データであってもその概念枠からは逃れられないという意味で性差別的であるというわけだ。もちろん、ここではこれ以上立ち入らないが、ジェンダー論の射程には、批判の矛先をこうした科学そのものに向けているものもあることは付け加えておきたい。
性分化は、遺伝子的レベルのほかに、発生学的レベル、性ホルモンの代謝による内分泌的レベルという段階を経て起こる。その意味では性分化は可塑的であり、ボタンのちょっとした掛け違いで男/女の区別はゆらいでしまう。生物学的性別は不変のものという考えは、からだを扱う本業の医学においてすら、すでに過去のものとなりつつあるのだ。
「男/女の間というのははっきりと分かれるものではなくて、グラディエーションをもったもの」だとすれば、改めて問われるのは、「いったい男らしさとか女らしさとはなんだろう」ということだろう。「ジェンダーは何か人間存在の核であるとさえ思える。」
そうであれば、私たちはどのように性を決定するのだろうか。「性の自己意識・自己認知」という問題領域は、脳死問題とも共通するところがある。性の自己意識あるいは自己認識という場合の、自己とはいったいどこにあるのか、あるいは何を指すのか。単純にして最大の難問がこの「自己」というもののありようだ。デカルトの懐疑に始まって哲学はこの「自己」との格闘に明け暮れてきた。そして、今、自明とされてきた男/女という問題までもデカルトの懐疑の対象となったということだろうか。性同一性障害とはパンドラの箱なのかもしれない。パンドラの箱を開けてしまった私たちはいったいどこへ向かおうとしているのか。
解離すらできない「ひきこもり」
自己の存在を厳密に確認することができない。何も難しいことを言おうとしているわけではなくて、「自分とは何か」というしごく単純な問いかけをしているにすぎない。たとえば、私、俺、僕…、どう呼んでもいいのだが、この私、俺、僕は何を指しているのだろうか。自分のからだ?
頭の中身? 自分のこころ? それとも……? たとえば、スポーツの最中、無我夢中で熱中している時、自分とはからだのことだと感じているのではないか。あるいは、熱心にあることを勉強している時、まぎれもなく自分とは脳の活動だと思っているだろう。また、恋愛をして相手のことしか考えられない時、自分とは恋をしている「こころ」の状態のことだと思っているのではないだろうか。自分とは何か、この確認すべき自己そのものが、じつはある時、ある場面で容易に変わるのである。
同じことが、人格でもいえる。自分が何者であるか答えることは、想像するほど容易くない。たとえば、日中会社にいる時、私は仕事をしている人である。しかし、帰宅途中に同僚といっぱい飲んでいる時は、はめをはずしてふざけている単なるオヤジ。また、家に帰れば、子どもの前で威厳をはなつ父親に変身する。TPOによって人格を変える、あるいは使い分けるのは、普通誰でもやることだろう。仕事している時も、外で飲んでいる時も、家族といる時も、まったく変わらない人格でいる人間がいるとしたら、むしろそっちの方が変だ。同様に、「昨日の私」と「今日の私」は違う。「舌の根も乾かないうちによくもぬけぬけと……」とからかわれたとしても、そもそも同じであるという根拠がないのだからしかたがない。私たちはこれまで暗黙裏に自らのうちに自己同一性を認めてきた。しかし、この自己同一性、アイデンティティというものが単なる思い込みの産物だという可能性は高い。解離現象はそのことを突きつけているのだとすれば、「同一性」を自明とする私たちの概念枠への挑戦ともいえる。
ところで、解離とひきこもりの関係について、斎藤環氏は次のように言っている。
「ひきこもりというのは、基本的には柔軟に解離できなかった人間が、強いて物理的に自分を解離するための最後の方策だという面もあると思う。」
十分に解離できないという状況では、ひきこもりという最後のカードに頼るほかないというのである。「コミュニカティヴな人は解離の方へ行き、コミュニカティヴじゃない人はひきこもってしまう。コミュニケーションを一つの軸にすると、その違いがはっきりします。」
確かに、ケータイはその意味でシンボリックなツールだといえるだろう。ある意味で、解離しなければ使いこなせない道具の一つだという指摘は示唆的である。eメールにしてもゲームにしても共通するのは、ケータイと同じようにある種の解離をアプリオリなものとして成立するメディアだということだ。たとえば、出会い系サイトにアクセスしている人の中には、年齢や性格を偽っている者は少なくないという。実際に会ってみたら、性別さえも違っていたという冗談のような話は山ほどある。ゲームやアニメ、コスプレといったいわゆるサブカル、オタク系文化は、解離と紙一重の関係にあるといっていいかもしれない。ただ、斎藤氏が指摘するように、「解離性同一性障害は女性が多く、ひきこもりは圧倒的に男性」という非対称性は確かにあって、コミケに二次創作ものを出展したり、コスプレに熱中するのは、圧倒的にヤオイ系が多いといわれている。いくつもキャラをとっかえひっかえしながら生きていくような、あえて誤解を恐れずにいえばこういったプチ解離的人格は、ある意味したたかさでもある。それができないゆえにひきこもるのだとしたら、ひきこもりの病理は相当に根が深いものだと言わざるをえない。
斎藤氏の発言でもう一つ注目したいのは、「こころ」と「からだ」に関する次のような指摘だ。
「身体がどんどん抽象化されていって、いくらでも操作可能なもの、一種の概念のような扱いを受ける傾向が出てきている。」一方、「こころの方は逆に身体化の方向に向かっている感じがします。(…)こころが分割可能なもの、切ったり分けたりすることができるもの、そういうイメージができてしまったために簡単に解離できてしまうのではないでしょうか。」
今や、こころは実体をもった物質のように扱われ、逆に、からだはあやふやでアモルフ(不定形)なものとしてイメージされている。こころとからだのこの倒錯した関係は、デジタルメディアの介在によって、よりはっきりしと形で現われてきているように思われる。こころとからだという常識的な対立図式が用をなさないのであれば、私たちはこころとからだの新たな概念枠を早急につくり出す必要がありそうだ。
カオスモーズのただ中へ
統合(失調症)こそグローバリゼーションと密接な関係があり、統合はいわば分裂することの可能性を断っていくことである。むしろ、必要なのは分裂であり分裂することを前提とした新たな主観性のつくり直しである||。
杉村昌昭氏の解釈するガタリの思想は、ガタリ本人が語る以上にラディカルであり、きわめて刺激に富むものとなった。たとえば、統合失調症よりも分裂失調症と呼ぶべきではないかという提言に象徴されるように、概念をつくりかえるためには造語による記号化作用も不可避な戦略と考えるガタリとは、根元の部分でしっかりとかみあっているように思われる。分裂(schizes)と主観性(subjectivite)を軸に練り上げられる社会変革のプログラムは、まさに「帝国」の時代にふさわしい脱領土化と生成変化の戦略知だ。私たちは、改めてガタリの先進性に驚きつつも、それが多くの思想家に受け継がれて、あらたな果実を生んでいるという事実を素直に喜びたい。
さて、杉村昌昭氏のインタビューはほかの四人のインタビューと異なっているような印象を持たれるかもしれない。四人の先生がみな医療を専門にしているのに対して、杉村氏は哲学・社会思想の専門家であるという立場の違いもあるが、その主張自体にある種の隔たりを感じられた読者もおられたのではないかと思われる。分裂や漏出、異質性の称賛は、こころとからだの奥深いバランスや密接な相関を認めようという主張とは、確かに違和感があるかもしれない。斎藤氏が最後に述べた多重化する主体を声高に主張するポストモダニストという批判は、明らかにドゥルーズやガタリを念頭に置いている。
しかし、そうした微細な概念上の違いはあるとしても、ガタリの思想は本質的に人間の多様性を認め、その解放を目指すものであるかぎり、同じ人間を対象とする医学の考えと矛盾することがないのは言うまでもないことだ。事実ガタリは、精神分析医としてラボルト精神病院で実際に臨床にあたっていたわけだし、病んだこころを回復させるのには、豊かな自然環境が必要だということも十分に自覚していた。表現こそ過激に聞こえるけれども、こころとからだのつながりを求めるという意味では、いずれの考えともリンクし合う思想なのだ。
こころとからだがバランスよく調整されるには、外部環境とのつながりが無視できない。病気の原因がストレスによるものである場合は、そのストレスを取り除くことがまず先決だろう。からだが被っているストレスに気づき、ストレスからからだを解放すること。一方、ストレスを生み出す外部環境も変えていかなければならない。やはり、必要なのはストレスを生み出す社会構造を変革していくことだ。では、社会構造の変革は、どのように行われるのか。
「その時に重要になってくるのが、精神の問題です。(…)一つは人間の心理の動きにかかわること。もう一つの意味は、人間のものの見方、感じ方です。」
ガタリはエコロジーの問題にこの精神の問題を接合したのである。ものの見方や感じ方を変えることが、環境や社会を変えることと同様に重要なことだとガタリは言ったのである。この考えを私たちのこれまでの議論に置き換えてみると、次のようになるだろう。
からだが変わることは社会が変わることであり、それはこころも変わることである。いや、ガタリの実践思想に則して言うならば、もっと積極的に言う必要がある。すなわち、からだを変えることによって社会を変える。そして、自らのこころも変える。ガタリの三つのエコロジーは、こころ-からだ-社会(環境)がネットワークのようなつながりをもって共に変わっていくことである。こころ-からだ-社会は常に変わり続けるものなのだ。
「個人という存在そのものが無数のエレメントからなる複合体だとして、それぞれのエレメントがそれぞれのしかたで結び付く。そしてその結合がどんどん増殖していくことによって、個人という人格とはまったく別の次元を切り開く。そういうかたちでつくり出される主観性というものがあり、それをガタリは個人的かつ集合的な主観性というふうに概念化したのです。そして、そうした主観性によって形成される網状的なシステムがほかならぬリゾームだったのです。」
分裂と主観性による実践のプログラムは、こうして「構築的な動きと異質性への分岐、そしてその混じり合いという二重三重の動きが無限に生成変化するところに、世界の未来(…)エコゾフィー」が実現する。
「それは同時に分岐への始まりでもあリ、動態的なものなんです。常に動きつつ生れ、結合と分岐の両方の可能性に開かれていく。その意味で、エコゾフィーはカオスモーズ的な状況のただ中で発生し、変化していくものなんです。」
「こころの病い」の時代は、こころそのものに大きな変化をもたらそうとしている。私たちは、それをむしろ新たな変革の兆しとして受け止めて、こころとからだ、そして社会を結び付けるための新しいきっかけとしたい。こころとからだのエコロジー。それは、常にカオスを孕むという意味では危機であるが、しかし、コスモスの兆しをも孕んでいるという意味では未来への可能性をもっている。そもそもエコロジーとはそうした渾沌と秩序の両方に開かれた思想なのだ。 (佐藤真)
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