| 銀座のスゥーリー、オアシスの灯りが消えた | ||||||||
| 以下、小山さんの登場する「パイプのけむり」巻数とタイトル 「スーリー」の表記は原文の通り | ||||||||
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![]() ![]() 1975.4.15 第7刷 濤書房刊 小山さんが逝ってしまった。スゥーリーの洋酒の棚の上に川上澄生の極彩色の額が掛かっていた。 何故か、僕の書架に「ゑげれす〜いろは人物」茶表紙の版画集があった。1975年、涛書房から出されたものだった。 「小山さん、お好きなら、今度、もって来ますよ」、 僕の生まれた頃に出た国定教科書スタイルの再販本は、僕の書架でくすんでいた。スゥーリーのウィスキーの棚の間にでも置いていただければ似合うのではないかと思っていたから、小山さんに差し上げると約束した。 昨年8月、老母の病気や老人ホームへの依願、入院などで、浅沼さんや他の八丈島の方たちのお誘いにも関わらず、黒潮の流れの中に佇む島にお伺いすることが出来なかった。 この時、浦澤さんやヴァイオリンの小林さんや小山さんたちが八丈島に飛んだという。あの時、八丈島に行けば小山さんに出会えたのにと思うと非常に残念な気がしている。 秋になり、銀座のお店に何度かお伺いしたがあのネオンは消えたままだった。しばらくして、浦澤さんや竹田さんから入院されていると伺ったが、健康診断くらいな軽い気持ちの認識をしていたし、九州にでも帰られたのかと一人合点をしていた。
團さんの葬儀や偲ぶ会のご縁で、八丈島の浅沼さんや、日本経済新聞の竹田さんやスゥーリーの常連の方たちにお会いした。 しかし、その後も、その方たちとお話しするチャンスはなかった。 でも、私は、小山さんの誘蛾灯に集まる美しい蝶や心優しい蛾たちが、何故、いつもこの空間を埋め尽くすかを「パイプのけむり」や團さんとのお話で伺っていたから、初対面の方たちに会っても、永年お付き合いをしているような親近感があった。 「早崎さん、銀座に僕の行きつけのバーがありますから、いつか行きましょう。」 團さんは、銀座や新宿や新橋や、横須賀、横浜、新大久保や菊川や浦和など講演や演奏会の会場の近くでお会いすると、会話の中でスゥーリーの話が良く出た。 そんな話題の中で、小山さんが発するフェロモンの話になったのである。 「美しい蝶や蛾が、誘蛾灯に集まるようにスーリーに集まってくる。でもね、猛毒を持った蛾も来るのよ。」 團さんは、こういってかかと笑った。 「團先生が、こんな隠しダマを持っているとは知らなかった」 小山さんは、私に対してこんな表現をした。 私の書いた、日経の文化欄の記事を見ての小山さんの感想だった。 小山さんに始めてお会いしたのは、先生が逝去された年、晩秋の頃だった。 浦澤さんとここでお会いしようと、夕方、まだ、開店していないスゥーリーの扉を叩いた。 「私は、会員でないのですが、よろしいでしょうか。九十九里の先生が、ここで、と、ご指定があったものですから」 「ああ、紬屋さんの」 「はい、浦澤さんと」 それから、私は整然と並べられた棚の上に團さんの若かりし頃の写真と小さな壷がおかれているのを発見した。 また、ハートの隅が欠け落ちたように寂寞感が襲ってきた。 でも、私は、スゥーリーに出入りする会ったことのない多くの人々のことをすでに知っていた。 「先生こそ、フェロモンをあちこちに振りまいているのに」 と、私は、その会話の時に團さんに申し上げたような気がする。團さんは、肯定も否定もせずニコニコと笑っておられた。 小泉淳作画伯、東森さん、日本ハムの芦原専務、骨董の祥雅堂の清さん、千恵さん姉弟、日本経済文化部の竹田さん、福井TVの高坂さん、老舗呉服屋の若旦那公二さん、清水先生、八丈の面々、太鼓のみっちゃんこと浅沼さん、舞台関係者、オペラ関係の方々、オーケストラの団員、放送局、新聞社、雑誌社などなど、小山さんお店はいつも満席だった。そのスゥーリーを舞台に、「パイプのけむり」に登場する人々について、私は、團さんに詳しく関係を問い質した。私には、資料整理という大義名分があったからに他ならない。そうそう、小山さんの葬儀委員長を勤めておられた、詩人滝沢さんのこともだ。 そうだ、ヴァイオリン小林武史さんが居た。ひょんなことから、小林さんを存じ上げていた。NHK 交響楽団のファゴット奏者だった近藤寿行さんは、僕の山の友人だった。そんな関係で何年か前に近藤さんからご紹介を受けた。 團さんと雨を呼ぶという雨乞いの神様小林さんとは入魂の間柄だと思う、その両者の珍道中は「パイプのけむり」の多くのページが割かれていた。私に、團さんを紹介していただいたのは、梶本音楽事務所の前副社長薮田益資さんだった。 「團伊玖磨先生を紹介してください」 と、依頼してから35年が経過していた。 通夜の席でお寿司をつまみ、酒を飲みながら配られた滝沢さんの作詞された詩集を読んだ。 小山さんのことや仲間のことを詠んだ詩集「二十日鼠の歌える」は、2001年團さん最後の作品となった、イヴァン・ゴル作詩、堀口大學訳詩、「マレー乙女の歌える」のタイトルをもじっていた。 そんな虫食い的思考で、私は、詩集を読んでいた。詩集には、隠微な「銀座裏の二十日鼠」の詩が、44編並んでいた。 團さんだけ名前が詠み込まれていた。22番目、中心の詩に洒落た帽子の團さんがいた。 ピンク色の表紙には、タイトルと回転車を回すスゥーリーのトレードマークが描かれていた。葬儀には不釣合いなピンク色の表紙は、悲しい別れには不釣合いだった。 その詩集には、「古い言葉、難解な漢字」が散りばめられていた。私には、その詩集が、新しい会社に入社した新入社員のようにその詩ににこめられた深い意味を理解することはできなかった。 新しい社会に入ると専門用語が飛び交う、会議に出ても、日常会話もだ。構築された一つの社会は、一つの閉鎖された社会の慣習や人間関係や会話で成立するのだから、スゥーリーという、小山さんを囲む社会は、門外漢の私には理解することが出来ない隠語が散りばめられていた。でも、その社会のメカニズムを少しだけ垣間見たように思えた。だから、40年を凝縮した詩集は、到底、私の知識やボキャブラリーでは及ぶことではないが、この詩集に刻まれた言葉の古い、古い歴史が、私にも、理解できるときが来るだろうかと、棺に向かって手を合わせた。
小山直志さんの棺は、美しい花や、人々との華麗な交流をとどめた写真や、深遠な趣味の世界の遺品に取り囲まれていた。焼香の香りが斎場を優しく包んでいた。「パイプのけむり」の中に著述されて居る小山さんのことだけしか、私には、判らなくなってしまった。 また、歴史が一つ消えた。 多くのことが闇の中に葬られてしまった。 小山さんは棺の中で少し歯を見せて微笑んでいるように見えた。 團さんは、何故か、「パイプのけむり」には、スーリーと表現されている。何故だったのだろう。(早崎日出太、2005.5.7) |
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