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霧島昇・松原操の歌を尋ねて「福島市古関裕而記念館」2010.09.30(木曜日)快晴
霧島昇・松原操が歌った古関裕而作曲の歌|ら|わ
記念館内の展示他

古関裕而の書斎

著作本
遺愛品
自筆原稿
自筆絵画
写真
色紙


企画展示
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訪問当日撮影した記念館全景と入り口
 念願の「福島市古関裕而記念館」(財団法人) 【福島市振興財団市制80周年記念事業として昭和63年(1988年)11月12日開館】に立ち寄って見ようと思い立ったのは、仙台の手前の槻木に住んでいる娘夫婦の孫の運動会に参加するためだった。
 この年(2010.年8-9月)、何十年振りの灼熱の夏の季節が過ぎた、初秋の、疾走する新幹線の窓から見える一面、黄金色に輝く田園地帯を走る途中の福島駅に降り立ったのである。
 ここ1週間ばかり東京の雑踏に紛れて何回かの音楽会に通っていたものだから、福島駅の東口広場に降り立った時は、清澄な空気と少ない人通りに何故かほっとしていた。
 雨になると報じていたテレビの予報に反して、薄い雲は懸っているものの、時折、見せる太陽の光はあの盛夏の暑さを置き忘れてしまったように乾燥した涼しさに恵まれ、生誕百年記念のピアノの前に座る古関裕而の彫像のほほ笑む姿に昔の恋人に出逢ったように胸が熱くなっていたのである。
 駅前のバス停留所から出ている福島交通のバスに乗り、日赤前で降り少し戻り右に折れ50メートルばかり歩くと、交差点の左側に件の古関裕而記念館が樹幹に三角屋根を青く澄み渡った空に見せていた。不図、あの悲惨な太平洋戦争後の混沌とした時代にラジオから流れていたドラマ「鐘の鳴る丘」(昭和22年7月5日-25年12月29日放送)テーマ曲が心の中を埋めていた。
 多感だった少年時代、このドラマの主題歌「とんがり帽子」(作詞:菊田一夫、作曲:古関裕而)のこの歌をドラマの筋書きを忘れ去ってしまっても、川田正子の澄み透った声を忘れないだろうし、このドラマの主役の隆太や少年たちの悲惨に比べたら両親や兄弟が無事でいる幸せを噛み締めずにはいられなかった。
 【「風がそよそよ丘の家」「風がそよそよ丘の上」の2つのバージョンがあると言うが、作家の心底にあったのは、この時代、戦争孤児の子供たちに必要だったのは、失った家族が居る大切な家だったのではないだろうか、戦争を知らない後の世代の人が情景を重視して、風が通り過ぎる状況にマッチした「丘の上」に変えたのではないだろうか。原作者がこのドラマを仕立てた、主旨は、家、家族を失った少年たちに与えたかった、人が生きて行く上に重要なのは、家族であり、家だったと思う。そして、愚かで悲惨な戦争を再び起こす事のない祈りだったのだ。】
 その三角屋根が深緑の空間に見え、隣に瀟洒な白い建物「福島市音楽堂」があった。
 入口を出入りしている初老の男性が「どうぞお入りください」と言う声で私は名刺を出し、ここを何故訪問したかを掻い摘んで話す。その方は、幸いにも館長の矢萩孝夫氏だった。
 團伊玖磨の事、古関裕而の作品を戦中戦後多くを歌っている霧島昇、松原操夫妻の事、父母の歌を歌い継いでいる大滝てる子(三女・二代目松原操)の事、館長の矢萩孝夫氏は、「会議がありますので短時間しか応対できませんが」と前置きしてこの館【創立:昭和63年11月12日】が、市所有の土地に建てられた経緯について話されたのである。
 1階はロビーとサロン、2階には古関裕而が生きた証しの数々の作品や遺物が展示されていた。
 もちろん、古関裕而には、吹奏楽の指揮やNHKやビクターの社屋の中ですれ違ったことはあるが会話を交わした事は無かった。
 広範な5000曲にも及ぶ作曲作品は、オリンピック・マーチ(福島民友新聞社「古関裕而歌物語」より)を始め、タイガースの球団歌大阪タイガースの歌(現在阪神タイガースの歌)「六甲颪(おろし)1935年(昭和10年)」など誰もがその作品を一度は口にしたに違いない。(オリンピック開催の前年、團伊玖磨は、
東京オリンピック開会 序曲(指揮・岩城宏之、NHK交響楽団)東京文化会館)を作曲、オリンピック開催時堂々と演奏された。
 この記念館の遺産を閲覧し、人生を振り返って見ると何故か、私がカラオケや宴会、人の集まりでおこがましくも歌う歌は、この作曲家の歌が多い事に気がついたのである。
 「船頭かわいや」は、私が生れた1935年(昭和10年)に高橋鞠太郎作詞、古関裕而作曲、音丸が歌ってコロムビアからレコードになり一世を風靡した。(品川天妙国寺・音丸直筆の歌碑)
 その頃、四谷で呉服屋をやっていた父(明治35年生まれ)は、筑前琵琶の旭日と言う名前で、琵琶を修行していたから、音丸と琵琶と呉服の事で出会う事があったと後で父に聴いた。
 その所為か家に、音丸や市丸小梅等のレコードが沢山あり、4,5歳頃からこれらの歌をレコードで聴いては真似て歌い、父に「子供がそんな大人の歌を歌ってはいけない」と叱られていたが、何故か、色恋の歌は幼少の私には心地よかった。とくに「船頭可愛いや」、「天龍下れば」、「島の娘」が得意だった。
 長崎への原爆投下、1945年(昭和20年)8月9日午前11時02分この日の前後には、毎年、自家の音響設備で涙に咽びながら「長崎の鐘」を歌い、多くの亡くなった方たちに思いを馳せる。
 永井隆博士は、永年の放射線研究で白血病の体で、さらに、爆心地から700メートルしか離れていない長崎医大の診療室で被爆した。
 多くの被爆者の治療も一段落したある日、妻はどうしたであろうかと自宅の位置に戻ると家は瓦礫と化し、探し当てた愛する妻は骨片になって、そのそばに妻が常に身に着けていたロザリオが落ちていたと、テレビのドキュメンタリー番組が報じていた。
 記念館に展示されていた「長崎の鐘」(サトウハチロー作詩/古関裕而作曲に対する永井隆からの御礼状と往復書簡が展示されていて、今から40年ほど前に読んだ永井博士の著書「長崎の鐘」の内容を思い出し目頭が熱くなる。後に、この著書を主題にした映画や芝居やテレビドラマ、ドキュメンタリーで多くの人々の感涙を絞った。
 この大量殺戮の爆弾が白血病や併発する病気で多くの人々が長い年月苦しんだ事実は、単純に悲惨だ、不幸だとは語れない。
 自分自身がこの地で被爆したわけでないからその苦しみは本当に理解できないが、65年の歳月が流れてもその悔しさ無念さを私は忘れる事は出来ない。
 浦上天主堂にあったと云うアンジェラスの鐘は、幸い、天主堂被爆で唯一形を留めた原爆の消えない証拠物件として高熱に融ける事もなく瓦礫の中から見つかり、今も美しい音色を響かせている。アンジェラスの鐘が鳴り、この「長崎の鐘 2番」の歌詞を歌う時、心の中で滂沱の涙にくれるのである。良い詩、良いメロディーは、これからも未来永劫続いて世界の人々に戦争が起こす人間の苦悩を歌い継いで欲しい。そして、未来の子供たちのためにも、世界中に争いのない日々であって欲しいと切望する。(早崎日出太)
 

古関裕而生誕百年【2009年(平成21年)1月11日】を記念して建てられた偉大な作曲家の彫像
福島市古関裕而記念館
 〒960-8117 福島市入江町1-1 TEL(024)531-3012 FAX(024)531-3012
開館時間:月~土曜日 午前9時~午後4時30分/日曜日・祝日 午前9時~午後5時
開館日=
年末年始(12月29日から1月3日)を除いて開館いたします。
※展示替え、資料整理のため臨時休舘する場合がありますので、ご確認ください。

        ホームページ 
http://www.kosekiyuji-kinenkan.jp/riyou/index.html
■交通のご案内【車でお越しの場合】・東京方面から東北自動車道福島西ICから 国道115号・4号経由で8.2km(約20分)
・仙台方面から東北自動車道飯坂ICから国道13号・4号経由で7.7km(約19分)

【電車でお越しの場合】  ・福島駅東口バス乗り場より保原、梁川、藤田、桑折方面に乗車、日赤病院前下車、徒歩3分
雑記帳(Wikipedia)関連する場所事 クリック各頁
No タイトル 関連用語
1 明治記念館岩手県奥州市江刺区) 工事中
2 鐘の鳴る丘少年の家群馬県前橋市堀越町)
3 有明高原寮長野県安曇野市穂高)
4 栂池高原スキー場長野県北安曇郡小谷村
5 映画「鐘のなる丘」
6 映画「長崎の鐘」
7 永井隆著:「長崎の鐘」
8 歌曲「新しい朝の」
9
10
11 團伊玖磨作曲「オリンピック開会 序曲」
(初演昭和38年6月23日、岩城宏之指揮、
NHK交響楽団、東京文化会館)
12 「鐘の鳴る丘」二木絃三の歌物語 歌詩及びメロディー/この頁に2009年7月22日投稿
 池波正太郎の世界小説エッセイ・戯曲・対談等 光文社版「鬼平を歩く」    クリック各頁
 隅田川に架かる橋浅草名所七福神隅田川・深川・日本橋・谷中・下谷・浅草・亀戸・柴又・板橋・青梅(以上七福神)浅草寺(Wikipedia)