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團伊玖磨全仕事トップ頁
いつかは、別れなければならないのが人の世の定めとしても、あまりにも無情です。一度、死地から助かった先生を、なぜ仏は急いで彼岸に拉致しなければならないのでしょうか。
私だけではないかも知れませんが、多くの人たちが師を失った悲しみに打ちひしがれているに違いないのです。
先生は、人の輪を構築する技をお持ちでした。それは、本物を本場で見聞きするため世界の果てまでの旅と古今東西の書物と、人々との出会いにより得られる豊穣な知識と巧みな話術によって、人々を幸せになさいました。しかし、やらなければならない多くのテーマを残し、鶴は天高く飛翔してしまいました。
人々から軽妙洒脱と表現される、「パイプのけむり」の素晴らしさは、その文章の中に人が介在するからです。 もちろん、人とひとの出会いは、当事者同士しか分からないドラマですが、一旦、先生の筆になると人との関わりが生き生きと表現され妥協を許さない難解な漢字とその文体の影に隠れた出会いが、万全な配慮と深い愛情で進行して、第三者にもその裏に隠された色々なことてら正確に理解することができるのです。
親子の対話もまさにそうでした。ちょうど、先生と私の年齢差が一回りほどあり、「パイプのけむり」のスタートと時期を同じくして生まれた息子の幼児期教育のために「パイプのけむり」を子育ての参考書とさせていただきました。
先生とご子息と動物の関係、青大将や蜥蜴,蝮、縞蛇、山棟蛇(やまかがし)、竹根蛇(ひばかり)、青葉木莵(あおばづく)、犬猫,兎、九官鳥、鳶、脊黄青鸚鵡,大蜥蜴など、ちょっと不気味なものやかわいい動物が子供の情操教育に適切という先生の持論は、私には半信半疑(レインボー・ボアという大蛇が團家には屯していたとか)でしたがご子息との会話は、父親の愛情と威厳に満ちたもので、羨望を感じながら読ませていただきました。(5−161)
終戦直後の1947年の早春、爽やかな春の風のようなラジオ歌謡「花のまち」が流れ、日本の多くの人々は、どれだけ勇気付けられたかわかりません。軍靴を引き摺りながら復員してきた先生が野田さんというお嬢さんとの出会いからこの歌「花のまち」が生まれました。(11−230,12−101,20−253,22−324) どこもかしこ瓦礫の山、ささくれだった人心を祈りにも似た気持ちで、詩人野間章子さんの心は美しい街よ甦れと「花のまち」を書いたとあります。(11−230)NHKの番組「メロディに乗せて」、「農家の憩い」の主題歌とともに食糧難で飢餓状態だった私たちの心の中を暖かく包み幸せな気持ちにしてくれました。 その時点は、私の意識の中で先生と「花のまち」は繋がりませんでした。
「ぞうさん」、(2−190,20−242,23−157,6,9,13)「山羊さんのゆうびん」(6,9)も作詞者のまどみちおさん(23−157)のことは、記憶にありましたが先生の名を知ったのは随分後のことです。昭和39年6月5日のアサヒグラフ・「パイプのけむり・ハンドバック」との衝撃的な出会いは、長男の出生(昭和40年9月19日)「パイプのけむり」第一巻(初版昭和40年11月30日)の刊行と併行して忘れることのできない出来事でした。
あまりにも正確無比な諸事の分析、表現、言葉・漢字の用法には脱帽でした。
あたかも、シャイロック・ホームズ(4,6,19,22)や人間心理の洞察力に優れたポアロのような鋭敏な推理の仕方、南方熊楠(23−120)、牧野富太郎博士(1,5,6,9,14,16,24)、民俗学者や科学者のような緻密、繊細な観察、「パイプのけむり」に表現されることどもは、スコアーをお書きになる時、定規も引かずに何段ものスコアーを精密機械の図面のように表現されることが原点にあるのだとかねがね思っていました。
「これだ、この文章だ、人がいる心がある、深い愛がある」、
1〜2年毎に単行本として売り出される「パイプのけむり」と自分の子供の成長と先生のご家族の出来事とともに生きてきたといっても過言ではないと思っております。
あるとき、
「早崎さん、パイプも1000回を超えるとまったく同じことを書いてしまう、何か良い方法は無いだろうか」
と、おっしゃるので、
「先生、それは辞書をつくることですよ」
と、私は、いつもの安請け合いで軽く答え、先生のお宅の玄関を出たとたん「しまった、どうしよう」と思ったが後の祭、帰宅するなり15巻の「パイプのけむり」を積み上げ考え込んでしまいました。
翌日、どこかの図書館の新入の司書のように図書十進法や書籍分類学の本を買い集め、読んでは見たが素人のはかなさ、膨大な単語の山をどのようにするかが漠然としていて、
「えい、ままよ!」
と「パイプのけむり」を20の項目に分類しました。
15巻を2ケ月に1冊分類するとして、約3年,それ以後の本が出ているとして、終わる頃には18巻目が出ているに違いない。とすると約4年で先生の筆に追いつく、その間、出来上がったところから、版を重ねようと考えました。
先ず、本文を単語、巻数、副タイトル、その単語が含まれる頁数、項目、ふりがなをコンピュタ・システム上で1枚づつのカードに置き換え、予定通り5年を費やして24巻、約16万語の辞書を完成しました。
結局終了したのが,平成10年でした。この辞書制作の途中経過を見た先生が
「あなたは、物事を整理するのうまいね。僕の昭和20年代からの資料があるから整理してもらえないだろうか」
とのお話に、私は心の中で欣喜雀躍、快哉を叫んでいました。
「日本の音楽史が作れる」
うれしくて、スキップしながら帰りました。
先生にご無理をお願いし、富士通のファィリングシステムEFS50を購入、当社の社員だった坂寄順子と蒲田明の協力によりお預かりした資料の新聞、雑誌、チラシ、ポスター、プログラム、楽譜などの入力を開始しました。
膨大な資料は、まだ5分の1も終了していませんが、先生の偉大な足跡を辿る、その一端は担えると思っています。「パイプのけむり」の圧巻は、なんと言っても人との出会いと別れです。
すべて、すばらしいに尽きるのです。とくに、「五弁の花」(23,P271)の詩人栗原一登(11−178,20−126,21−10,23−273)、多忠麿氏(23−273)、千田是也氏(23−273)、乙羽信子さん(13−P230,23−P274)のご逝去に始まる、妹さんの死を五弁の椿の花びらが舞い落ちる状態を想起しながら簡潔な文章で描かれていて、胸ふさがる思いをしました。
また「無情の夢」(1,P91)流行作曲家、佐々木俊一氏(1−93、13−244)との出会いと別れ、私自身が幼時から青年時代に聴いて育った「無情の夢」(22,P252)、「新雪」、「僕の青春」、「長崎物語」(1,P91)、「高原の駅よさようなら」、「月よりの使者」、「サンフランシスコのチャイナタウン」、「東京夜曲」など、戦後の混沌とした時代の歌は、しみじみとしていて、先生が酒場のカウンターに伏して「あきらめましょと 別れてみたが……」と小声で歌っている悲しみに満ちた声が今も、耳をついてきます。
このように書いてくると枚挙に暇がなく、それぞれの文章の根底にある人に対するやさしい心配りがしみじみと伝わってきます。さらに、お仕事の多くは、沢山の人々にも、幸せを運んでいます。
合唱作品は一部を除いて全員参加できるように考慮され、合唱曲では街全体で歌うことができ、合唱団もオーケストラも大ホールに集合して花を添えます。
オペラでは、歌手から、オーケストラから、バレエから、監督、演出、美術、照明、衣装、大道具、道具製作、かつら、メイク等など多くの舞台芸術を網羅しています。
これは、出演者を多くし万人に対する先生の共同作業をする方々へのやさしい心配りだと私は考えます。
パイプのけむり辞書は、20項目のうち、最も多いのが旅での地名,人名に関することです。
地名148、人名92、食物65、物品56、植物52、音楽50、健康43、交通・旅行41、地学37、動物33、教育報道32、歴史26、政治経済22、宗教17、文学17、芸術11、時事問題7、科学2、その他38(60行/1頁、25巻まで)・・・・・などです。
あの秋谷の山頂から見る四季の絶景、右に葉山や江ノ島、左の三崎海岸、中央に富士の高嶺が夕日に黒いシルエットを描き眼下に広がる港に出入りする漁船やヨットの航跡。お伺いするたびに門のところで先生と和子夫人が、
「また、お出かけください」
とにこやかに送り出していただきましたが、もう、再びご両人にお目にかかることはできません。
私は、今宵も先生の著された「パイプのけむり」の頁を開き、自分のためになってしまった辞書を牽いています。 平成13年7月8日( )の数字は巻数
この文章は、平成13年の團先生、ご逝去の際、日本経済新聞文化欄に掲載するため作成したものです。ただし、新聞には、キャパシティーの関係で、文章の一部をカットしましたが、この頁では、全文を掲載致しました。(早崎日出太)
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