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創るということ・・團伊玖磨
  本稿は、團伊玖磨先生が平成13年5月17日中国において急逝されて3回忌を迎えるに際して、学士会会報に掲載されたご講演速記録を了解の上TASC MONTHLY/2003/5/NO.239号に掲載したものです。
講演開催日時:2001年4月20日 東京神田・学士会館にて、国内最後の講演?(学士会会報2001-V.NO.832掲載)

  團でございます 團藤先生からたいへん詳しいご紹介をいただいて、私はあんなに詳しい紹介を受けたということはちょっと珍しいことなので(会場笑)、ああ、そんなこともしていたんだなと思ったりして、そろそろ記憶が薄れる頭で、新鮮に自分のキャリアを伺った次第でございます。
  きょうは「創るということ」をお話ししたいと思って参りました。と言いますのは、私は音楽を創っております。 目に見えるものではなくて、「目に見えないものを創るということはどういうことか」ということを中心にお話ししたいと思います。「作曲」というものの事柄自体が誤解をされている向きがありますので、それはどういうことなのか。簡単に言えば、頭のなかで創り上げた音楽を、楽譜という書法で定着することが作曲という作業でございます。「そして、それを受けて、今度は演奏する人が私たちの書いた楽譜を分析したり練習したり暗譜したりして、多くの方々に聴いていただく。当たり前のことのようですが、芸術のなかにはそうした、たとえば創作、創るということ、演奏するということ(表現者であり再現者であるそういう人たち)、それを受け取ってくださる方。  この三者がいて初て音楽が成り立つわけで、このうちどれを欠いても音楽成り立たないのでございます。ところが、いろいろな芸術のなかには、二本棒のもの、三本棒のもの、いろいろあります。
  たとえば絵画の場合は、絵描きさんが絵を描く そして、それを壁に掛ければそれでいいわけで、非常に簡単です。簡単という意味は、仕事が簡単ということじゃございませんよ。その組み合わせは、創作と鑑賞とで成り立つわけです。もとよりこれをたくさんに頒布することになったら、印刷だとか、いまはテレビとかがあるでしょうが、本質的には創作と鑑賞ということで成り立ちますから、二本棒です。では、文学はどうかというと、芸術というものと文学というものは同じかどうか分からないが、考え方を芸術だと思えば、やはり創作家が書いて、それを読めばいいという本質は、絵と同じことになります。

 
 ただし、絵の場合は1枚の絵を大勢で観ることができますが、原稿に書かれた作家の原作は大勢で読むことができませんから、どうしても印刷という手を程なければなりません。したがって普通、創作があってそれを大量に複製する作業を通して、読者に配られていくわけです。ですから、本質は二本棒だけれども、どうしても2.5という柱になります。それでは、音楽のように三本柱で成り立っているものは他にあるかというと、まったく同じものが演劇です。これは劇作家がまず、原作を書きますでしょう。そうしますと、俳優さんが集まって、これを練習するなり勉強するなりして、演劇の舞台に表現をして、それを観る方々がいる。 これは、新劇でも歌舞伎でも能でも同じことです。
  
そういうふうに、三本柱でなければならないものと二本柱のものとがあるということから始めますと、これを反対から言えば、音楽というものは、音楽を観賞する人間の接点はまず、演奏者にあって、その演奏者のもうひとつ向こうに、そのものを創った作曲家がいるということになります。これは芝居も同じです。歌舞伎を観に行く。そこでは歌舞伎役者が演じている。しかし、これは誰かが創ったわけで、それは誰かというと、たとえば鶴屋南北であるとか誰であるということで、作者、演技者、鑑賞者というものがあります。この三つの柱で成り立っている芸術と二本の柱で成り立っている芸術は、たいへん本質が違うし、また、創られ方の手順が違うことをお分かりになっていただけると思います。
  
ところで、「作曲」と言いますのは、新しい言葉です。明治になってから、日本で「作曲」という言葉はできました。伊沢修二が苦し紛れに訳をして、「作曲」という言葉をつくったんだと存じますが、その前、江戸時代は何と言っていたか。たとえば端唄を創る。小唄なんかは節が決まっているようなものだけれど、ともかくある言葉を歌にするということは、江戸時代までは「節付け」と言っていました。「作曲」という言葉はありません。その「節付け」という言葉があるということが、ひとつの表現になっているんです。と申しますのは、あくまでも文学が主である。文学と言っていいかどうか分からないけれど言葉が主であって、それをどう歌うかということが作曲であったわけです。
  これが明治以降だと全く違ってきます。したがって、「作曲」という作業は明治以後のものになります。その前は、「作曲」というのとはちょっと違うんです。
それなら、隋の時代、あるいは唐の時代に日本に渡ってきた雅楽はどうか。雅楽も私たちの言葉で言う「作曲」が行われていたと言っていいと思いますが、それは途中でほとんど絶えてしまいます。雅楽は遠くインド、そしていわゆる西域の国々で交流して、しかも仏教とともに交流したものが多いのですが、そうではないものも含めて一緒にして、隋の時代には洛陽に、唐の時代には長安の都にも入ってきました。中国人というのは、本質的に音楽が不得意な人たちですが、特に中原の漠族、いわゆる中心的な中国人は、音楽は苦手であっても文字で記すことは世界的な天才です。
  したがって、唐の音楽は文学が中心にならざるをえなかった。そこにインドや西域の国々、遠くは中近東の国々の音楽的な要素が、ドッとばかりに洛陽や長安に入ってきた。
いままでの自分たちの漢民族の音楽、つまり文学を中心とした音楽でないもの、舞踊を中心とした身体的構造が音楽の元になっている音楽、つまり躍動的な音楽がドッと入ってきたものですから、中国人はびっくりするわけです。そして長安の都などではこれを新鮮に受け止めました。しかもそれが非常に流行りました。無論、その当時に私はいたわけではありませんから文献によりますが、長安の都ではお酒を飲んだり料理を食べたりする店が華やかに開店した。

  
そのようなところには踊りをする女性がたくさんいて、楽隊がペルシア音楽を演奏して、唐のモダンボーイはたいへんそこに通ったとあります。
  たとえば李白も通ったし、いろいろな詩人も通い、そしてそのことを詩に書いておりますね。
踊りについて言えば、日本の踊りがいちばん極端ですが、東洋の踊りは水平運動が主になっているんです。つまり、上下運動というのはあまりない。地歌舞や歌舞伎の踊りをご覧になっても分かるように、畳の上もしくは板の間を滑るが如く水平に動くことが基本になっています。ところが、中近束や西城の踊り、そして足寄を越えたインドの北の踊りをいろいろ分析してみますと、上下運動が非常に多いんです。これは、ヨーロッパまで続きます。水平運動もあるけれど、上下運動がたくさんある。特にヨーロッパでは、水平運動と上下運動が巧みに組み合わされて、ひとつの完成された城に達しています。東ヨーロッパの東側の接点であるところ、たとえばブルガリア、ルーマニア、それからドナウの岸のあたりのウィーン。ウインナーワルツなどは、ちょうど上下動と水平移動が完全にひとつになった踊りです。上下動が多い踊りは、東洋では唯一、朝鮮の踊りです。これをよく考えますと、騎馬民族、つまり馬に乗るということとたいへん関係があるようです。さらに、不思議なことですが、朝鮮海峡を隔てて、朝鮮には三拍子の音楽がたくさんあるんです。朝鮮民謡集を見ますと、9割8分ぐらいが三拍子です。朝鮮海峡を隔てて一衣帯水の日本に来ますと、三拍子は絶無です。ほとんどが二拍子、あるいは二拍子の倍の変体的な四拍子です。たとえば、朝鮮へ行くと、朝鮮の人がすぐ歌う、♪アーリラン/アーリラン/アーラアリーヨー♪という歌がありますでしょう。

 ♪アーリラン♪1、2、3(拍子をとる)/♪アーリラン♪1、2、3/♪アーラアリー♪123/♪ヨー♪123。

この「1、2、3」というリズムは、なぜか日本にはないんですよ。むりやり探すと、ないことはないですが、ほとんどない。普通に歌われる「五木の子守唄」というのは三拍子ですが、あれは朝鮮の被虜と言いますか、要するに簡単な今の言葉で言えば、文禄・慶長の役の時に秀吉が朝鮮半島から拉致してきた人たちの歌だと思います。それは、1万、2万の問題ではありませんね。現在、北朝鮮が日本人を拉致したとかという問題があって、その数、10人とか15人とか言うけれど、そんなものじゃありませんね日本人こそ拉致の先輩であります(会場笑)。先輩どころか、それがずっと続くわけですから。これはちょっと音楽と違ってくるんだけれど、でも決して政治的発言じゃないです。歴史的認識の事実だから。つまり、文禄・慶長の役があって、たくさんの被虜が来た。あのへんの陶工はみんなそうでしょう。その末裔が中里太郎右衛門とか柿右衛門とかで、朝鮮が元であった。いちばん最初に来て有田で窯を開いた李参平−イー・サンピョンというんでしょうけれど――という人物まで分かっているし、李参平を陶阻だと尊敬して、神社まであります。それだけじゃないですね。どんどん日本は生産を拡大して、つまり米を穫れるようにするために、たくさん新田を開発する。すると、どうしても労働力が不足してしまう。西洋で主であった麦というのは、蒔けばいいんですよね。ところが、米は蒔けばいいんじゃない。水田を作るということは、水平の土地を作らねばならない。水平でない斜面には、「田毎の月」のような段々畑を作らなければいけない。段々畑じゃない、段々に水平、水平の畑を作らなければならない。それには水路を複雑に組み合わさなければならない。というようなことで、人手が要るし、また草取りもたいへんな作業です。

  日本の水田米作は農業じゃない、園芸だと、英国の農業の本で読んだけれども、それだけ手がかかるということでしょう。農業というのは本質的に、もっと単純なもので、たとえば麦を作る。そうすると、力が余る。力が余れば牛を飼える。酪農と農業をひとつにできる。一家で牛を飼い、乳を搾り乳酪製品を作り、片や麦を蒔くということができる。しかし、日本では米を作ったら、それだけでもう本当に一家中の手間がかかって、牛を飼うならせいぜい堆肥を作るだけ、酪農まではいかないということを読んだことがあるけれど、僕は日本の農村をよく歩くものですから、それは本当だなと思います。なぜこんな話をしているかというと、音楽を創るということは、音楽だけ創ればいい、音楽だけの知識があればいいということではないわけですね。音楽を創って表現する場合、何を表現するかということが非常に大切になるわけで、浅薄な雑学でも、なるべくそういつた人間の生活の本質に関わること、これを握らないと音楽らしい音楽はできない。1年か2年流行して、ある人たちが歌って、そして消えてしまう音楽、つまり流行歌を創るなら、その時だけの社会にアピールすればいいけれど、私の創っている音楽は子供からおじいさんまで、ずっと時間に耐えるものを創りたいわけです。そうすると、やはり生活というものをはっきり知らないといけないわけで、いけないことなんですが、つい雑学に走ってしまいます。

  えー、どこまで行きましたか(会場笑)。拉致だ。新田を開拓してたくさん人手が要るようになると、日本人自体も増えますが、まだ足りない。で、倭寇をご存じでしょう。簡単に言えば、倭寇は日本の海賊みたいなもので、中国大陸、あるいは朝鮮半島の沿海を荒らしまわるわけだけれど、そのひとつの目的は、人を捕るということだったんですね。物を奪るだけじゃなく、人をかっさらってきて働かすということだったようです。これは男だけではなく、女もずいぶん連れてきた。子守りという仕事がいちばん、拉敦した女に適していたようです。言葉が要らないでしょう。つまり、背負っているのは言葉の分からない赤ん坊ですから、言葉が要らない。安全に保護すればいいんで、しかも一日中、軒下などに立って「ほいほいほい」と言つていればいいわけだから、複雑な言葉が要らない。若い女の子は全部、子守りにしたようですね。それが歌に残っているんです。  「五木の子守唄」というのがありますでしょう。あれがいつ創られたかは知りませんが、
  「おどんま勧進勧進/あん人たちゃよか衆/よか衆よか帯よか着物」

というね。「勧進」というのは何を指すか知りませんが、中国人か外国人かという意味らしいですね。つまり、私たちは身分の低い者、あそこを歩いているあの人たちは一日本人ですね一階層のいい人たち。だから、自分たちの着られない「よか着物」も着て歩いているということでしょう。子守唄がそういうことを言っているということは、子守りがそうだったということでしょう。子守りにそういう人たちが多かったということらしいです。しばらく経って家康の天下になると、朝鮮刷還使――はじめの頃は朝鮮通信使とも言います――が500人ぐらい、毎年、日本に来るようになる。ちょうどいま、テレビの「人間講座」のプログラムで、その説明を毎水曜日にしていますが、通信使のひとつの目的は、将軍への敬意であるだけでなく、被虜の刷還だというんですね。日本に連れて来られた人たちを、少しでも朝鮮に帰すということがちゃんと目的に挙げられている。あるいは家光が将軍職を継いだお祝いとか、日光の東照宮ができたお祝いとか、いろんな名目で来るんだけれど、それが日本と外国とのただひとつの正式な外交関係であったわけだから非常に大事なんだけれども、そこには人を帰すことも目的にある。

  それから、いろんな船が朝鮮から着くと、故国の船が着いたというので、朝鮮の人がたくさん「帰りたい、帰りたい」と言って押し寄せてくるが、全部を乗せるわけにはいかない。それでも、初めの頃は1000人ぐらいを帰したりと、家康はいい政策をしているのだけれども、そのうち、この人たちが帰らなくなるんですね。だんだん日本に居着いて、日本の女性と結婚して子供ができる。子供も朝鮮語は分からない。そうすると、日本に居着いたほうが生活しやすいということになる。重ねて、朝鮮では動乱が続いているので、故国へ帰ったって生活できないから日本にいようということになって、帰る人が減ってしまい、結局、日本人に同化される。いつも私、話すんですが、日本人というものは地面からキノコみたいに生まれたものじゃなくて、全部どこかから来たわけです。日本にもともといた人は、いないですよね。日本は火山列島ですから、島ができてきたら、どこかから来たわけでしょう。朝鮮から、あるいは中国の土手っ腹から。私は名前が「團」というものですから、しかも出自は九州ですから、どこから来たかということに興味があって、いろいろ調べてみました。そうすると、日本の、たとえば北九州のあたりには自由都市があって、海外からやってきた人間の村まであったんです。そのかわり、朝鮮には日本人と称する人たちの村もあって、そこが反乱を起こして三浦(さんぼ)の乱なんていうのが歴史にも出てきたりします。パスポートのない時代ですから、なに人、なに人という国の意識はあまりなくて、ゴジャゴジャ混ざって束洋の島国はできてきたのでしょう。アイヌもいたし、北方からロシア人もたくさん入ってきたでしょう。中国人も、それから南からもある程度は入ってきたでしょう。そういうふうな混成旅団が日本人であるわけですから、いまでもあまり「日本的」という言葉を安易に使うことは、特に民族学的には非常に危険だと思うんです。

  私は本を書く場合にも、ちょっと属している音楽でも、「東アジア的」とは言っても、「日本的」という言葉は、絶無ではないけれど、ほとんど使わないことにしています。「日本的」というものをよく調べてみると、たとえば奈良の法隆寺に行って「日本的」だと感じる方が多いようですが、これはとんでもないですよね。朝鮮の人が来て創ったんだから、これは単に「朝鮮的」なだけです。そういうふうに国境というものを、文化的にあまり厳しく考えずに、茫漠とした「東アジア」に立脚すると考えたほうが、突然、正しくものは見えてくる、ということもあるようです。中国と日本の文化交流を仕事にしているから言うんじゃないんですが、実際、文化というものはそういうものなんじゃないか。伝播もするし、同時多発もあるし、いろんなことで進んでいくわけであって、あまり厳しく国別に言うこと、たとえば客観的に見ても、あれはルーマニア音楽だ、あれはブルガリア音楽だ、あれはアルバニア音楽だ、というようなことは、あんまり意味がありませんでしょう。音楽の文化を確立することに成功したハンガリーぐらいだったら、あれはハンガリー音楽だと言うことは意味があるのだけれども、あるいはウィーン音楽だとかハブスブルクの音楽だとか言うことは意味があるけれども、音楽というものは、「国」で性質を言うべきものではないですね。細かく言うと、その国にもたくさんの民族がいるし、個人個人の感覚も違う。
  
そこまでいくと、引き返さなければなりません。「作曲」という言葉から入ったわけですが、日本では雅楽は長安の都で発達したものが、律令時代にそのまま入ってきたわけです。「入ってきた」というのは、「人間が来た」という意味ですよ。文化だけが歩いてくるわけがないですから。たとえば、王仁(わに)が「千字文」を持ってきたとか、あるいはその前にも漢字が既に入っていたというのは、漢字を使う人たちが来ていたという意味であつて、同じ意味で、雅楽も音楽だけが入ってきたのではなくて、その演奏団体が日本に入つてきて、朝廷の、あるいは仏教―――初めは神道じゃなくて仏教――の庇護を受けて楽団として存在したということです。 
  たとえば、いまの宮中の雅楽の方たちの姓を見ると、園さん、芝さん、珍しいのは東儀さんとか、日本人の名字と遠いますでしょう。多(おおの)さんという方もいますね。「古事記」を編纂した太安万侶の子孫だと言われています。そういうような人たちが来て雅楽を創る。
後にお話しすることと関係がありますが、そういうふうにしていろんな民族がやってきて合成されてでき上がった日本人は、日本人同士でコミュニケートする必要が非常に多かつたんじゃないかと思うんです。新しいものを創る、あるいは変形して利用することがうまかったんですね。たとえば、漢字が入ってきますでしょう。わずか数百年で日本人は、男仮名・女仮名というカタカナ・ひらがなを創ってしまう。日本語を崩さずに、漢字を利用して文章が書けるようにしていきます。
  
日本人はどうして仮名を発明したかと、中国人が悔しがるんだけれども、現在までついに中国人は発明することができなかった。たとえば、「ニューヨーク」と書こうとすれば、「ひもそだて(紐育)」とか書くでしょう(会場笑)。メキシコなんて書くのは大変ですよね。「墨」みたいな字だとか「西」だとか、それを書かなきゃならない。これは、漢字を音標文字として使うからです。

  
中国人はなかなかセンスがあって、音標文字として使うだけでなくて、ちょっと意味を付けるんですね。たとえばコカ・コーラというのは、「くちにすべく、たのしむべし(可口可楽)」と書く。これ、いいじゃないですか。それから、音だけじゃないですよ。ちょっと軽蔑の言葉なんかも平気で入れるんですね。
  中国の周辺の少数民族はずいぶん獣へんが付いています。北方民族を「羌」と言いますね。「あいつらは羊ばかり飼っているから、羊と人間の合いの子だ」という意味ですよ。そういうふうな言葉を創ったり、東夷・西戎・北狄、と全部、蔑視の意味もそーっと入れておくということをやっている。そういうことには感覚があるけれど、簡単に発音を書くことは、中国人はとうとう発明できなかった。
それを日本人は数百年で、しかも2種類の仮名を創って、それを定着させた。新しく字を創るということは、相当な知的エネルギーが要ることです。そしてそれが伝播して定着するには、ひとつの社会組織がきちっとあったということだから、仮名を発明したことで日本語は滅亡せずに済んだ。しかも滅亡どころか日本語はそれから非常に栄えていくことになったと思いますね。ところで、面白いことを中国で聞きました。中国のことですから、革命的な人間は海外にたくさん留学しました。たとえば、郡小平はパリに行った。周恩来は日本に来た。ちょっと前の時代の人も来たし、蒋介石も日本で勉強した。「社会主義」なんていう言葉は、中国は日本から習ったんですね。だいたい「主義」という言葉は、日本が元じゃないかと言われている。指導者を言う「幹部」という字がありますでしょう。この言葉は、確実に日本人の発明だそうです。そして、中国人が大好きな言葉で、「共産党幹部」とか、新聞を見るとすぐ書いてある。すべての中国人が「これは日本から習った言葉です」と言います。そういうふうな日本の明治時代の造語が、どんどん中国に行った。驚くなかれ、歌まで中国へたくさん行った。たとえば日清戦争の時の軍歌が、いくつも中国の軍歌になったと言われています。変でしょう? その頃、騒擾を起こしていた、

  「煙も見えず雲もなく/風も起らず浪立たず/鏡のごとき黄海は/曇り初めたり時の間に」という歌があります。

♪けむり−もみ−えず− く−ももなく−♪って、いい節ですね。

あれは雅楽寮の奥好義(おく よしいさ)という天才が創ったの。あの人は、ことによったら 「君が代」も創ったんじゃないかと言われています。奥さんの姓も一字で、中国系の人ですね。「火筒の響き遠かざる/跡には虫も声たてず」という「婦人従軍歌」というのをご存じじゃないでしょうか。奥好義はこの歌も創っています。

  ♪ほづつ−のひびき−と−おざ−かる−あーとにはむ−しの−こーえた−てず−♪

すごくいい歌です。現代としてもすばらしいメロディ。それも日清戦争の時、作曲したんですね。
  もう、わざとどんどん脱線しますが(会場笑)、おかしなことですが、軍歌は日清戦争の時が一番いいんです。それは、たくさん創らなかったから。日露戟争になると、前線か
らのニュースのようにして歌を創ったんです。たとえば『橘大隊長』。ある大隊長が大活躍したというと、すぐそれが銃後の歌になるんですよ。そんなことをするから数が多くなりすぎちゃって、残念ながら全体の質が落ちていく。いいのもありますが、詳しく研究してみますと、日清戦争の時の歌にはかなわない。日清戦争はまだ、音楽というもの自体が新鮮なんですね。新鮮である上に、外戦ということも徳川時代にはなかったわけだから、戦争も久しぶりというか新鮮だった。それで案外よい歌が創られて、隣の恐ろしい大国と戦争をすることも勇気づけたんでしょう。

たとえば、「雪の進軍/氷をふんで」という歌があります。

あれも日清戦争の歌でしょう。「夜具の黍殻シッポリ濡れて」なんて、作詞もなかなかいいです。さっきお話ししかけた「煙も見えず雲もなく」は、中国の教科書に載りました。中国で最初の音楽の教科書は『学童学歌』と言いまして、日本で勉強した李淑同という男が編纂しました。この人は、初めての美術教科書も創りました。この中に「煙も見えず」があるんです。これは「革命軍」という名前なんですね。言葉が反中国的だから変えて、節はいいから使ってという歌は、いくつもあります。いまの方はあまりご存じないけれども、むかし、『寄宿舎の古釣瓶』という歌があったんですね。

  ♪な−わこ−そく−ちた−れ/こ−のふ−るつ−る−うベー(縄こそ朽ちたれこの古釣瓶)♪
というユーモラスな歌です。小山作之助という人が作曲したんですが、この歌もすごいです。八路軍の進撃の歌(「中国男児」)になりました(会場笑)。つまり、文化というものの凄まじさは、その創られた目的から離れて、相互影響と相互利用がすごいということです。だから、日本の朝廷の音楽に唐楽を用いることも、考えてみればおかしなことですが、仮名を創ったように、唐楽が入ってきて200年ぐらいすると、日本人は自分たちの雅楽をどんどん創りはじめました。これを「左方」「右方」と言いますが、左方は唐楽、右方は高麗楽です。日本で創られた雅楽もたくさんあって、日本語が付いている歌もたくさんあります.そういうことを考えると、日本人の何でも発展的に利用していく力は、現在もそうであるように、ひとつの特性なんじゃないかなと思う。それに比べて中国人は、それほど小器用ではないわけですね。それはともかくとして、「作曲」なんていう言葉がない日本に、どういうふうに西洋音楽が入ってきたか。いままではなんとなく漂流してきた男とか、それとなく中国からやってきた人だとかが、いろいろな音楽を持って入ってきた。日本には三つだけ正式な国家の方針として音楽を入れた時期があります。まず最初は唐楽を入れた飛鳥朝、つまり天平の文化の時です。あの時は、律令、法律自体を入れた。入れたというか模倣したわけだから、建築も模倣したし、音楽も雅楽を入れたわけです。

その次に、半分正式で半分正式でないが、キリシタンが来た時です。当時、信徒が増えるとともにキリシタンの讃美歌が一般化していって、相当、根を張りそうだったんです。ところがその後、凄まじいキリシタン弾圧で、あらゆる音楽的遺産をぶち壊しました。安土にも大分にもパイプオルガンがあった。織田信長が創らせたセミナリヨには、本当のパイプオルガンがありました。五島列島の竹のパイプでオルガンを組み立てたこともあるんですね。現に、フィリピンには竹のオルガンが、マニラの郊外ラス・ピニアスという村にひとつあります。ところが、秀吉・家康の時代になると大弾圧でもって、セミナリヨは跡形もなく壊され、本も焼かれ、音楽自体も歌うことを禁じられた。音楽というのは、まずいことには人に聞こえますでしょう。そーっと読むのとは違って、あるいは書いているのと違って、すぐバレてしまう。だから、異教徒のものとして大弾圧を受けて、消えてしまいます。わずかに九州の離島に、「歌おらしょ」という、当時の讃美歌が残っていると言われ、それを研究している立派な学者もいらっしゃいます。でも、実際には、それは一般のいまの日本人に影響はないですね。ほとんど消えてしまった。3番目に、音楽を正式に聞いたのはいつかというと、ペリーの浦賀への上陸の時です。あの時の艦隊は不思議な編成で、「たった四杯で夜も眠れず」ですから4隻なんだけれど、驚くなかれ、旗艦が二ついたんです。これは違う艦隊だったんです。それをマカオから集結した時に、何か編成上の理由もありましょうが、旗艦が二つ来ちやったんですね。普通の軍艦が2隻、旗艦が2隻、それで日本にやってきた。旗艦には軍楽隊、つまり音楽隊が乗っているんです。

これは世界共通の認識で、日本もそうでした。だから、ペリー上陸の時には、音楽隊が2隊いたんです。これは普通の倍です。1隊は、正式には50人です。しかし当時は、50人はいないと思う。25人から30人ぐらいが2隊いたわけでしょう。それが音楽を奏でながらカッターを漕いで、ペリー上陸地点という久里浜に上がったわけです。日本人は仰天したんですね。音楽を鳴らして軍隊が来るって、そんなこと考えたこともありませんでした。それが幕末に日本人が聞いた洋楽の公の瞬間です。でも、その前に、九州薩摩藩はすでに、そ一つと洋式調練という西欧の軍事教練を始めていました。不思議なことですが、日本人は足並みを揃えて行進することを知りませんでした。これは信長の時代も秀吉や家康の軍隊も、誰も知らなかった。だから、当時の軍隊は、ただバタバタ駆けるだけで、歩くなら、ぞろぞろ歩くだけ。映画などで見ますと、四十七士の討ち入りは山鹿流陣太鼓を打って、雪をサッサッサッサッと踏んでくる感じじゃないですか。でも実際はそうじゃない。山鹿流陣太鼓は、威勢づけに打っても、歩調を揃えるための太鼓ではないのです。
  
したがって、山鹿流は鳴っているけれど、雪を踏んでぞろぞろと行った、これは間違いのないことなんですね。当時の絵を見ると分かる。足並みを揃えることは知らなかったんですね。洋式の軍隊の調練をするには、まず足を揃えることから始めますから、困った薩摩の軍隊は、それをするためにはどうしたらよいかということを外国人に相談した。それにはラッパ鼓隊を使うといいというので、ラッパも輸入し、西洋太鼓も輸入し、ドンガドンガやりながら「1、2、1、2」と歩いていくことから勉強を始めていたんです、すでにペリーの頃に。宇和島とか未来に目覚めた人たちはわりに早く、明治のごく初年には洋式の鼓笛隊ができ上がっていた。信州なども意外に早いんです。「宮さん宮さん/お馬のまえにひらひらするのはなんじゃいな」というのは、鼓笛隊です。鼓笛隊を先頭に、つまり当時のモダン音楽を先頭に、有栖川宮熾仁親王はやってきたし、明治天皇もことによると、明治2年に京都から江戸に来られる時に、それを鳴らしてきたのかもしれません。明治維新直前・直後もそんなようなことだったけれど、さあ、明治維新がなると、まず「脱亜入欧」という言葉が正しいかどうかは知らないが、「アジアを捨ててヨーロッパー辺倒に」ということで、当然、音楽も公に入るようになりました。そして、最初はどういうわけか、アメリカに留学したんです。目賀田種太郎という人と伊沢修二という、後に台湾総督府の役人になつた人で、教育畑を一所懸命やって、作曲もした人が、アメリカに行ったんですね。ところが、どうもアメリカは音楽が盛んじゃない。考えてみればヨーロッパの移民だから、ボストンあたりの学校ではイギリスの教科書を使っている。それではイギリスに行ったほうがいいじゃないかと、ヨーロッパの事情をよく調べる。すると、音楽はやっばり、ベートーベンなどという偉い人を輩出したドイツだということになる。どういうわけか、オーストリアと言わないでドイツになったんですね。それで、みんなドイツに勉強に行く。明治の特徴は、水平線の向こうを見て、いちばん優れた実績を上げている国に留学する。だから、絵描きはパリにいいのがいたから、みんなパリに行った。お医者さんは、みなドイツに行った。音楽家もドイツに行った。

そうすると、文化というものは言葉まで入ってきちゃうんですね。だから、絵描きさんは「ガッシュ」だとか、ビロビロ着るものを「タブリエ」と言ったり、,フランス語まで入つてくる。お医者さんは、「カード」でいいのに「カルテ」と言ったり、患者のことを「クランケ」と言ったり、ナイフのことはドイツ語で「メス」と言うでしょう。それからはみんな、ドイツ語の、何かちょっと隠語みたいになって使っている。同じように、音楽もはじめは英語でしたが、アメリカをやめてドイツにしてからドイツ語が入ってくることになります。ただひとつ、もともと芸術は全部そうかもしれないけれども、音楽は苗床が要るんじゃないかと思うんです。たとえば西欧では、音楽はキリスト教の教会で育ったわけです。キリスト教以前の音楽は、ほとんどありません。キリスト教がローマから入ってきて、だんだん北に北にと広がっていく。その時に、教会をどんどん建てます。教会では必ず讃美歌を歌い、神を崇め、なおかつ、いろいろな儀式を行う。それには音楽が伴うことが通常でしたから、音楽と教会とは切っても切れない関係になっていくわけです。美術もそうだと思うんですね。当時の絵画は全部、たとえば「最後の晩餐」なんかは宗教画でしょう。ルネサンスの時まで、つまり人間が人間の芸術を取り戻そうという時までは、ほとんどが宗教画でした。音楽もそうでした。たとえば歌を歌うには、ある一定の揃え方をしなきゃならないから、合唱は教会でシステムが創られましたし、その合唱をうまく歌うには、「せ−の」と揃えなきゃいけない。そうすると、指揮ということが生まれてくる。指揮法は完全にキリスト教の教会で生まれました。それから、忘れないようにいように音符を書いておかなきゃいけない。その記譜法、符を書くことは全部、教会でできました。これは、9世紀終わりとも10世紀とも言われるんですが、フランスのラテン系の司祭のギゾーという人が、線の上に音を書くことを考えついた。

 教会には羊皮紙にいろんな線で書かれた厚い楽譜があって、ヨーロッパの骨董屋にいらっしやると、悪い坊主が骨董屋に売った昔の楽譜をたくさん見かけます。それらは1線もありますが、ほとんどが3線ですね。4線もあります。現在は5線紙と言って、私たちは5線の上に音符を書きます。こういうふうに発展してきたんだから6線がいいだろうと言って、6線を考えた人もいます。しかし、人間の目の構造は5線は見られるのに、6線の複雑な位置にあるものは同時に見られないんですね。不思議なもんですね..
なぜかというと、5線というのは、真ん中がはっきり見えるんです。上が2本、下が2本、等間隔に書いてあっても、真ん中がすぐ分かる。そうすると、1番下の線、上の線、真ん中が同時に見えますから、どこの音かがすぐ分かる。1本だけでも増えると、どこが真ん中か分からない。真ん中と真ん中の間であることは分かるんだけれども、線が分からないんですね。実際に6線で刷ってみた楽譜を見たことがありますが、どうしても分からない。でも、はじめのうちは3線だった。それから4線時代も多い。ニコライ堂で使っていた昔の楽譜には、4線があったようです。

 ただし、海外旅行にいらして、羊皮紙に刷ったいかにもそれらしく古びた楽譜、といっても、おそらく木版でしょうが、その下にラテン語の経文が書いてあるものは、お買いになることは自由だけれど、本物だと思っちゃいけない(会場笑)。イタリアに、有名な贋物を作る会社が2軒あって、売っているそれらの楽譜を見ますと、ほとんどどっちかの製品なんです。良心的なんじゃないかな。そこの会社のハンコが押してあるんだから(会場笑)。つまり、歴史的文物を模造で売っているんですよ。だから、これを本当だと思って買ってきちゃいけない。僕もずいぶん買いました。ただし、部屋の装飾としてはたいへんいいですね。ともかく、この話はどこから行ったんだ?(会場笑)あ!すべてが教会で育ったと。記譜法もそうですし、あらゆることがそうです。そして、音楽自体も神を賛美するために創られました。西洋音楽の7割ぐらいがほとんど宗教楽だと言っていいでしょう。僕たちはベートーベンの交響曲とか、宗教楽という域を離れたものをたくさん鑑賞していますが、その後ろには、ベートーベンだってバッハだってヘンデルだって、ほとんど一生、教会のために書いているわけです。バッハなんかは教会に雇われて、教会の先生をして、教会の合唱隊と喧嘩したりしながら、黙々と作曲をしていたんですね。彼は熱烈な新教徒です。ドイツでは、新教が盛んになったところから音楽が新しくなるわけです。ルーテルのおかげです。

 ヘンデルもドイツに生まれて、イタリアでオペラの作曲家になって、ロンドンに上がってバッキンガムの楽長になりますから、やっぱり英国教会の音楽を書いていたんです。一生を方々で教会のために書く。 その当時、まだ演奏会らしいものはないんです。演奏会というのは、フランス革命が基調になって、王様が聴いていた音楽を僕たち民衆も聴こうじゃないかということから始まりました。いままでは有名な演奏家は王様の係だった。彼らにお金を出せばやってくれるだろうというので、演奏会場を造って、切符を売って演奏会をするのはごく新しいことです。だいたいここ170から180年だと思えばいい。ですから、その前は、音楽は一般の人たちのものではほとんどない。ベートーベンでも、どこかのお屋敷に雇われていって初演したりしたわけです。ただし、オペラだけは遠違います。こうお思いになるといいんですね。関ケ原の戦いは1600年でしょう。つまり、16世紀と17世紀の頃です。そして、最初のオペラがフィレンツェでできたのが、1600年です。ちょうど天下分け目の時に、フィレンツェで最初のオペラができる。
  
16世紀というと、もう17世紀よりずいぶんと前のことなのに、オペラは新しい芸術で、初めてそこでできるんです。そして、演劇というものがあるじゃないか、音楽というものがあるじゃないか、歌というものがあるじゃないか、いろんなものがあるんだから、それを一緒にやったらどうだろうって、いい考えですよね。そして、非常に新しい傾向の貴族の若い坊ちゃんたちが、揃ってオペラというものをやってみた。やってみたらば、みんな泣いて騒ぐほど成功した。そして、オペラが市民権を得て50年後には、イタリア中には500軒のオペラ座があったという、そのぐらいに流行するんですね。そして、イタリアからフランスヘ、それからドイツへ、イギリスヘというふうに、だんだん旅回りの劇団が行くようになった。ですから、オペラだけはドイツでもフランスでも、はじめのうちは全部イタリア語で歌っていました。いまでもそういうことは多いのです。ところが、これに目覚めたのはさすがに文学的な国のフランスです。フランスはフランス語でやろうよということになって、ごく初期にフランス語のオペラができます。ドイツは目覚めが遅くて、オペラはどうしてもイタリア語じゃなきゃダメだと言っていた。
  たとえば皆さんがご存じのモーツアルトは、一生の前半に書いたオペラはイタリア語で、最後の二つ、有名な「魔笛(Zauberfloete)」と、「後宮よりの脱走(Entfuhrug)」だけがドイツ語です。当時の作曲家はイタリア語ができなければ商売にならない。イタリア語で作曲するのが当たり前で、ベートーベンも、毎週木曜日の晩は、イタリア語のレッスンを受けるために先生を自分の家に呼んできて、イタリア語を一所懸命、勉強した。だから、あの人にはイタリア語の作曲もあります。あまり
うまくないけれど、あります。やはりイタリアがヨーロッパの音楽の先生だったということが分かります。

  話しを日本に戻しましょう。日本はそういう洋式調練から、必要があって音楽が入ってきたけれど、やはり公に音楽を脱亜入欧のために教育に取り入れようと思ったんですね。
それで伊沢修二がアメリカに行ってダメで、ドイツに行った。ただ、ダメといってもアメリカに留学して、先生を一人連れてきたんです。メーソンというボストン近郊では有名な人だったらしいんですが、僕は非常に凡俗な人だと思いますが、外人教師の第1号です。つまり、英国系の教科書を使っているわけだから、英国の歌を日本の子供に教えようと単純に考えた。だから、教科書を編纂する時に、スコットランド民謡やアイルランド民謡が日本の小学校にたくさん入っちゃったんです.
 もしメーソンがドイツから来た人だったら、ドイツ民謡が入ったでしょう。英国には、いい歌がちょうどたくさんありましたから、英国の歌でも別にいいんですよ。ともかく現在まで続く伝統というのは、そういうことで、できていくということです。

そして、最初の作曲家が現れる。日本でいちばん最初に誰が作曲したかというのは、たぶん伊沢修二だと思うんです。たとえば、伊沢修二の作曲でご存じかなと思うのは、昔の方はご存じでしょう、「紀元節」という歌です。第1節、あれは何でしたっけ。「雲に聾ゆる」かな、そうじゃないか。
  ♪ラーラーロ―ララララーラララララー/ララララー あおぐきょうこそたのしけれ(仰ぐ今日こそ楽しけれ)♪ですね。
  2番が、♪うなばらな−せるはにやすの−(海原なせる埴安の)♪。ともかく 「紀元節」を創った人が洋楽を輸入した人であり、初代の東京音楽学校長で教育家でもあったわけです。そのへんから「作曲」ということがだんだんに出てきて、あれもそうじゃないですか。東大の総長だった外山先生。外山●山(ちゅざん)という人ね。●山の作詞の、「来れや来れ/みな来れ」かな。あれらのものも、その頃、少しずつできているんだけれど、みんな本職ではない。いよいよ本職というのは、滝廉太郎という、明治12年に生まれた人が出現するんです。これはやっぱり最初の天才が必要だったんですたいへん上手くて、いろんなものの初演をしていて、じゃんじゃん作曲を好きでして、そして相棒の女生徒――これは非常に清らかな愛情ですね――東くめという仲間に作詞を頼んで、それで作曲をする。書きも書いたり、
すごくいいものをたくさん書いたわけです。

そして、学校に認められてライブツイッヒに留学する。ライブツイッヒは有名なメンデルスゾーンが創った音楽学校で、いまもありますが、いい学校です。ただ、あの寒さと、ライプツイッヒというのはなにかこの一種の湿度もあるんだな。なんかこの健康地じゃないですね。そして、もともと肺結核だった滝廉太郎は、到着してちょっとして、すぐ結核がひどくなって送り還されてしまう。そして、故国の大分竹田に帰って、すぐ死んでしまいました。23歳で死んだんですね。

  23歳までにですよ、たとえば「箱根の山は天下の瞼」だとか、
  ♪は−るの−うら−ら−の−す−みだがわ(春のうららの隅田川)♪とか、
  それから 「荒城の月」とか、あるいは「散歩唱歌」とか、

  ♪ぼっぼっぼ/はとぼっぼ♪とか、
  
♪もういくつ寝るとお正月♪という歌だとか、

 書きも書いたり、子供の歌は全部創っちゃったのね、基礎を。それで、23歳でさようなら(会場笑)。唖然とするようなことです。その間には、ベートーベンのソナタの初演もあります。いろいろな音楽が満ち満ちている人だったと思うんです。顔写真を見ると、強度の近眼鏡で、あまり風采はあがらないようだけれど、やっぱり今の流行りの言葉でいうとオーラというんですか、光を発している人だったようです。そして、その7年後輩が山田耕筰です。そして、その1年後輩が信時潔さんという、これまたすごい作曲家が出ます。山田・信時という人が同時に出るわけです。そして、日本の洋楽は、創作面からもどんどん上がっていきます。もう時間ですから、あとたったひとつだけ追加のお話しをします。そして、山田先生の弟子は僕です(会場笑)。ですから、なんというか、いかに短い歴史か。日本の音楽の歴史なんていうのは、非常に短いのです。ともかくひとつ申し上げたいのは、僕は、「作曲」ということは、ある種の製図と似ていると思います。あるいは、レースを編む、その基本の製図に似ていると思うんですね。つまり、音を書く、具体音を書くのだけれども、それはあくまでも演奏者に任せる。ヨーロッパでだいたい250年かかって完成した、ひとつの製図法であり、ひとつの表現法であり、約束事が多い表記と言いますかね。音楽の言葉では記譜法というんですが、その記譜法に従って書いてあるわけです。ところが、日本で困ったことがひとつあるんです。西欧は、さっき申し上げたように、精神がいちばん高揚すべき教会で音楽が育ちましたでしょう。日本では本来、江戸時代までは、最も卑近なところで音楽が育っていたんです。まずいちばんの中心は、遊里です。江戸で言えば吉原。つまり、芸事と一緒に音楽が育ってしまった。これは、教会で育ったのと反教会(会場笑)、極端な遊里で育ったということは、どうしたって音楽の質を変えるでしょう。向こうは大勢で神を称えて歌おうといっているのに、こっちは「はぎくらやひとにかくれたひるあそび」というのを(会場笑)、なるべく聞こえないように、三味線を打っているようなことになるわけです。これは質的にしようがない。そして、明治維新直後の政府は、それを変えようと言って大いに変えたつもりで、伊沢さんたちは教育を音楽の住処にしようとした。いいですか、ある意味では先見の明もあったかもしれないけれど、ここは大変ある意味で残念で、簡単に言えば日本の音楽をつまらなくした。つまり、音楽は学校を住処にした。当時、学校令を作っていますから、ピアノもオルガンもないのに、音楽の教科書を作っているんですよ。明治5年ぐらいに出た発布令には、「音楽の時間は、当分これを欠く」というのが最初ね。それからその次は、大声をあげて歌詞を朗読する。当時、音楽の授業は楽器はないし教える人もいないから、たとえばこれは教科書の歌じゃないけれど、「はるのうららのすみだがわ」とワーツと言って読んでいたんですね。音楽の授業は、まったく音楽的でないことから始まったんです。そして、困ったことには、その頃、先生がいないし、学校というものはどうしても当然のごとくきちんとしています。そして、愉楽の場所じゃありません。いまはずいぶんスポ―ツなんかをやるようになって愉楽だけど、当時の学校はやっばり直立不動という感じが多いわけでしょう。四大節(しだいせつ)には式があって、というようなことですね。そこに音楽を音楽教室に住み込ませようとしたところに、どうしようもない、いまに続く宿命があるんです。

学校というものと共生しなかったのはただひとつ、軍隊なんです。僕は両方の経験をしましたけれども−、芙際に軍隊で創られ演奏されていく音楽と、学校で創られ演奏されていく音楽は質が違うんですね。いま戦争は否定の世の中ですが、でもこれを歴史として見ますと、海軍の軍楽隊と陸軍のそれでは海軍のほうが優れていたと僕は思いますが、たとえば軍艦に乗っていた楽長が、いまに残る「軍艦マーチ」なんかを書いているわけです。いろんなものを書いている。陸軍の軍楽隊も、いろいろな音楽を書いている。文部省が作ったのは教科書だけ。それでいいのですけれど、その教科書の編集には音楽の方針がなくて、あくまでも日本的なものを排除したんですね。どういうわけでしょうかね。まったく西欧の節の猿真似じゃないですか。たとえば、♪うさぎおーいしかのやま(うさぎ追いしかの山)♪でも、「ドレミファソラシド」でできている。日本の音階ではできていない。それからもうひとつ、学校ですから、当時の学校は「個性」というものやなんかを嫌ったんじゃないですか。歌に「自分」が出てこないんです。極端なことを言ったら、「人間」も出てこない。つまり、花鳥風月になっちゃう。西欧の歌は全部、「自分」が好きだ嫌いだといった卑近なことから、「自分」と神との関係や契約ということを言っている。ところが、日本は違うんですよ。ぜんぜん「自分」がないんですよ。たとえば、

♪ゆ−きやこんこ/あられやこんこ/ふってもふってもなおふりやまぬ/い−ぬはよろこびにわかけまわり/ね−こはこたつでまるくなる♪

というの。で、君はどうしてたのかと(会場笑)。そうじゃありません?君は何をしてたのか、寝てたのか、と。犬は駆けまわって嬉しかろう。猫は寒かろう。君はそこにいなかったのか、と。君がどうしていたのかっていうのが、欠けてしまったんです。これは小学唱歌、全部に言えます。

少し「自己」があるのは、「うさぎおいしかのやま/こぶな‥…・」でしょうが、でもなんかはっきりしないでしょう。それから、

♪さぎりきゆるみ−なとへの(さ霧消ゆる湊江の)♪、

いい歌だけど、西洋の音階でできている。

私たちの年齢で習った小学唱歌に「自分」がどのぐらいあるかを、徹底的に調べてみましたら二つだけありました。それは「われは海の子」(会場笑)。

  ♪わーれはう−みのこし−らな−みの(われは海の子/自浪の)♪

これはどういうわけか「われ」がある。しかも最初にある。これはたいへん珍しいんです。それからもうひとつ、6年生の教科書に「スキーの歌」というのがあって、そこに「ストックかざして我は翔ける」とあるのね。この二つだけに「われ」がある。それも、普通の言葉で「あたし」とか「わたし」とかいうのはないんですよね。「われ」っていうのは、なんか概念でしょう。子供にとっては特にそうです。「自分」のない音楽というものが、ずっとでき上がってきてしまった。
それからもうひとつ、国語の教科書にべートーベンの『月光』について書いてあったのを思い出されるお年寄りの方もあるんじゃないですか。僕は思い出します。ベートーベンがある夜、ウィーンの街を歩いていた。月が出ていた。とある家の前で、ピアノの音が聞こえている。耳を澄ましたら、「自分の曲を練習している」と思って、その家へ入っていく。見ると、月光の中に目の不自由なお嬢さんがピアノを弾いていた。その情景を見て感動した彼は、一散走りに家へ帰る。そしてその時の印象を書いたのが『月光』というソナタであります、というものです。こんな滅茶苦茶なことを国語の教科書で教えていたことに、僕はものすごく憤慨するんです。有名な一流の音楽家が、どこの家でも不法侵入しますか(会場笑)。案内もなく、しかも女の子のいる部屋にですよ。ベートーベンが自分の曲を弾いていたからといって、ずかずか上がり込みますか。西欧の家というのは、日本のように縁側から上がるわけにはいかないじゃない(会場笑)。厚いドアがあつて、ベルなりノックなりをして初めて、薄く開けられたドアから、警戒して「どなたですか」と言われて、それで案内されれば入れるわけでしょう。しかも、このお話しには嘘が7つも8つもあるんですね。たとえば、案内もなしに廊下をひと部屋ひと部屋覗くのは、泥棒のすることじゃないですか。どこかで音がしたから、見たら目の不自由な少女がピアノを弾いていたって。月明かりだけで、何で目が不自由かどうか分かります?(会場笑)マッチなんかつけて、よほど近づいて見れば分るだろうけれども、分かんないでしょう。そして最大の間違いは、走って帰ってすぐできる曲じゃないんです、あれは。写すだけでも3日はかかります。いくら早く書いたといっても、写すよりはどうしても時間はかかります。昔の人は書くのが早いといっても、あのソナタ1曲に5日はかけていると思いますね。そういうふうに音楽家は変な人間、とりわけ作曲家は変で、他人の家にもずかずか入つていって、女の子の部屋にも入っているような、痴漢まがいのやつで、仕事といえば一晩で何でも書いちゃうというような、そういう印象でもって、国語の時間に作曲家は位置を創られたわけです。
だから、僕が作曲の仕事をするといった時に受けたその反対は、もう筆舌に尽くし難い屈辱でしたね(会場笑)。そのなかには、とてもいいアドバイスもありましたが、結局、父親に反村されて、父親が山田耕筰と仲が良かったものですから、彼らは不良同士で仲が良かったんだ。
それで僕を山田耕筰のところへ連れていった。その前の晩に父は電話をかけて「反対してくれよ」と言って、山田先生は「ようがす」と言ったって。そして僕は知らないから、前の日に清書したものをゴム輪で留めて、ぶるぶる震えて赤坂の檜町にある山田先生の家に連れに行かれた。

 ドアが開いてあの有名な山田耕筰が出てきて、「坊や、どうぞこちらへ」とか言った。そして父親が「これがなんか作曲をしたいと言っておりますが、才能もないに決まっていますし、自分の子供だから才能があるはずはないな」と、自分のせいにしているんです(笑)。あるわけはないから反対してくれとは、僕がいるから言えないんだ。
 
「……と暴れておりまして、困ったもんでございます。君、なんか書いたものがあるんだろう。見せたまえ」なんて僕に言っているんですね。すると先生が、書いたものには興味を示さないで、「ともかくこっちに来たまえ」と言って、ちょうど日が射している廊下に連れていって、僕の顔を両手で挟んで、太陽に当てて見たんです。そして、「ああ、この子には作曲をやらせましょう」と言ったんです(会場笑)。これは大ヒットですよ。
 
僕は心のなかで「本当か?」と聞き損なったんじゃないかと思ったんです。父親は、僕がいるから「約束と違うじゃないか」と言えないから、オロオロして向こうの部屋で格子から立ったり座ったりしている。それから先生は自信に満ちて、「それならこういうふうにして、東京音楽学校に入りたまえ。入る前の先生も紹介してあげる。僕は君を教える時間はない。君が一人前になったら実作を持ってきたまえ。教えてあげる」ということで、実際そうしたわけです。結局、山田先生の一言で僕は作曲をすることになって、お蔭様でなんとか糊口をしのいで、いまもこうしているわけです(会場笑)
 
僕はなぜ音楽をしたいかというと、ズンジャカズンジャカという音楽が好きだというようなことではなかったんです。僕は歴史学者になるつもりだった。そして、どういうわけか、特に近代史をやりたいと思っていたんですね。それがこういうことになってしまったんですが、音楽史の本を読んだんですよ。そうしたら、日本は作曲が振るわないと書いてあったんです。大田黒元雄という人の書いた本に、作曲は山田耕筰しかいないって書いてあったんです。ずいぶん無責任な(会場笑)。あの先生はそういう面白い人です。

 
「あー、それはどうしてだろうなあ。やっぱりそれなら誰か一人、一所懸命やったらいいじヤないか」と考えた。僕はピアノぐらいは習ってもいたし弾けたから、それじゃあ、作曲が面白いかもしれないなと思って、結局、作曲をするということになった。音楽は音響的にしびれるとか酔えるとか、愉楽の対象としてだけでないことで成り立つものだと、僕はいまでも信じているんです。ただ、ズンジャカズンジャカヤっているのは、その時はいいけれど、50年、100年と作品が残らないと思うんですね。やはり、その民族なら民族、その地方なら地方というものに、刻み付けるような音があっていいんだと思う。これは、ある意味で学問とまったく同じだと思いますね。だって、明治の絵というのはあるじゃないですか。横山大観とか、大正の絵だったら岸田劉生とか、ひとつの時代を区切っていった梯子みたいな意味の文化、それが音楽にないことは非常に残念で、そういったものを創っていく気概を持たなきゃいけないんじゃないかなと思うんです。もっとお話ししたいことは山のようにありますけれど(会場笑)、きょうはここでお話しをおしまいにします。

(作曲家・日本芸術院会員・東京音楽学校・昭20)   團伊玖磨全仕事目次へ    この頁トップへ