
新島小学校の校歌について〜平成15年5月17日(金)、
竹芝桟橋(Wekipedia)で10時30分に出航の八丈島行きの船を待つ間、手持無沙汰だったので、20人位の生徒を連れた先生らしき人に話し掛けた。
課外授業で6年生の生徒達、校長先生と東京に来たという。これから、新島に帰るという。
(
新島村立新島小学校 東京都新島村本村2〜2〜1 )私が、話し掛けた先生は宮本恵介先生という。
「私達は、これから八丈島で團先生の3回忌に行くのです。」 と申しあげたら、
「うちの学校の校歌、團先生の作曲です」と、鸚鵡返しに返事が返ってきた。先生の表情は、誇らしげに見えた。
生徒さんたちも、口々に
「ぞうさん、作ったひとだよなあ」、「おつかいありさんも、やぎさんゆうびんもだよ」などと、子供たちも陽に焼けた健康そうな表情を私に向けてきた。
新島は、
大島、
八丈島、
三宅島、
御蔵島に次ぐ面積の島である。容積ならどうなるのだろう。
伊豆七島(Wekipedia)
新島は、本村(ほんそん)と若郷(わかごう)、海上2キロの
式根島を入れて人口約4千人、約600所帯、先生は、初めて1981年(昭和56年)3月完成した住民センターを会場として、この年の5月28日演奏会のために訪問しておられる。(「またしてパイプのけむり」第14巻「二つの島で」22頁、1981.6.19/1981.7.26/1981.7..3)
1951年(昭和26年)新島小学校の作曲を依頼してきたのは、新俳句の巨匠
萩原井泉水(おぎわらせいせんすい、Wekipedia)さんからだと「パイプのけむり」に書いておられる。
この頃、團先生が27才の時鎌倉在住の頃で、巨匠が近くに住んでおられたと言う。
巨匠の弟子に新島出身者がいて、熱烈に懇望され作詞をしたという。1番を男子生徒、2番を女子生徒3番を男女の合唱の形の校歌を作曲された。
この辺が先生の一ひねりも、二ひねりもあるように私のような門外漢にも解るのである。かと思うと溌剌として明るく、従来の伝統的なありきたりの校歌ではないと、現代の若者たちにも言われる曲想がこの時代に出来上がっていたようだ。校歌の発表の日、海は、荒れに荒れて島に渡ることは出来ず、新島行きは断念されたという。
ソプラノの伊藤京子さん、ピアニストの森島英子さんと元八丈町長、東京都議会議員 峯本清次さんの案内でこの島を訪問し、演奏会を行い、27歳の時に作曲された校歌を歌う子供たちの合唱に、長い間遭うことのできなかlった、我が子と再会され感動されたに違いない。
この演奏会で、お会いになった宮本先生も、校長の平原保先生も、幼児かまだこの世に生をなしていなかったに違いない。
そして、作曲された歌が30年間も新島小学校で学ぶ生徒達に歌い継がれていることに感動したと書いておられる。
このとき、生徒たちは、先生の作曲した歌を何回も何回も歌ってくれたと言っておられた。・・・・
人々の喧騒の竹芝桟橋に、大型の船が横付けされ深夜の闇が海上を染めていた。
「うちの学校の校歌、團さんですよ」
と、言った、宮本先生の顔を写したように、私自身も誇らしげな顔をしていたと思う。
先生と生徒達が大島行きの船で出て行くのを見送りながら、これから新島を巣立っていくこどもらが社会に出て、
「うちの校歌は、團伊玖磨作曲だよ」と、自慢してくれればいいなと思っていた。
そして、この雄大な景観を持つ美しい島の子供たちに歌い継がれれば詩人が描き、メロディーを付けた両先生の深遠なる心が未来永劫続くであるようにと祈るのである。
因みに、私の出身校
滋賀県立彦根工業高校は、大正2年2月3日創立、校歌は、
土井晩翠(Wekipedia)作詞、(
「荒城の月」(Wekipedia)の作詞)、外山国彦作曲(指揮者)
外山雄三氏は、国彦の三男〜1931.5.10生)
私が、あの忌まわしい戦争中にの小学生時代通った、安土国民小学校は、團上等兵が兵役で過ごしたしていた
陸軍戸山学校軍楽隊(Wekipedia)の何方かが作曲したらしいが不明である。
(早崎日出太)
| 新島小学校校歌 | |||
〔男生徒〕 我が国は 朝日ぞ出ずる伊豆の海の 日日に新し新島に 強き心は島の板の いぁおの如き我等なり 〔女生徒〕 此の島は 富士の嶺遠く見渡して 黒潮寄する白砂に 清き心は紅の つばきの如き我等なり 〔男女生徒〕 此の庭は 厳に添うて拝さき 我等の父もその父も こゝに学べる校(いえ)にして 今も学べる我等なり |
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