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池田SGI会長の素晴らしき出会い/
第22回日本文化に巨歩/作曲家・團伊玖磨氏
vv(2001年6月24日聖教新聞に掲載)
   團伊玖磨さんが亡くなった。五月十七日。中国の蘇州。旅先である。急のことだった。 突然の訃報に私は驚き、思いは中国へと翔けた。あの温容が浮かび、大陸の大きな風と、大きな空の風景の中で、悠然と微笑み立っている團さんの映像が、なぜか浮かんだ。
   もちろん、お気に入りのパイプを燻らせながら――。
「いろんなことがありますが、明るく、明るく考えてね、青空を見ながら歩いていく東アジア人になりたいですね」
團さんが新聞記者に語った、そんな言葉を思い出す。

民音の運動、楽しみです

 團さんとは二回、お会いしている。最初は、有楽町の日生劇場だった。もう、ずいぶん前になる。記録を調べると、昭和三十九年の五月三十日の夜。「喜びの琴」という演劇の千秋楽に招かれて行った。原作は三島由紀夫氏。演出は浅利慶太氏だったと記憶する。その半月後に、同じ日生劇場で、創価学会が母体となった「民主演劇協会」の初の観劇会が予定されていた。その関係もあって、いっぺん会場を見ておきたいとも思っていた。行くと、私のすぐ後ろの席が、團さんの席だった。民音(民主音楽協会)が発足して半年というころである。

「民音がお世話になります。どうか、ご指導を、よろしくお願いいたします」と、あいさつすると、「日本のために、素晴らしい芸術運動ですね。楽しみです!」。手を差し出して、ぎゅっと強く握手された。本当に喜んでくださっていた。

「音楽は、みんなのものですから。だれか一部の人のものではないんですから!」。広々とした人間としての深さ、温かさを感じさせる笑顔だった。「プロの芸術」も大事だが、それはだれのためにあるのか。「民衆の芸術・文化運動」があってこそ、社会全体が美しくなり、幸福になっていく。そう信じ、そこに希望をもっておられた。

音の花園を街へ“出前”

 團さんには、作曲で自分の名を上げようとか、残そうとか、そんな「けちな気持ち」は、ひとつもなかった。ただ、頭の中に降り注ぐ美しい音を、「音の花園を歩く幸福」を、一人でも多くの人と分かち合いたいだけなんだ。聞いて、だれかが喜んでくれたなら、だれが作った曲かなんて、どうでもいいんだ――。体も大柄だったが、気持ちも大きな方だった。音楽界の大人であり、悠々たる「音楽皇帝」の風格があった。

 七色の谷を越えて……敗戦後の町や村に流れた「花の街」のメロディーの豊かさ、優しさ。知らない人はない童謡「ぞうさん」。NHKの「ラジオ体操第二」も團さんの曲である。

 オペラや交響曲などで、次々と新しい挑戦を重ね、批評家を唸らせる一方、工場のおじさん、農家のおばさんから、子どもたちにまで親しまれる曲を作った。「聴き手のことを考えずに書かれた“実験的”な作品などは全く認めません。また、怜悧な音楽や凄絶な音楽に共感もしますが、音楽には何より基本的に暖かさが必要だと思っています」

 「音楽は、ひとつの愉楽にすぎません。しかし、人間が心の深いところで求めている愉楽であると思います。筆者は、そのような人の心にこたえ、喜んでもらえるような、幸せになってもらえるような曲を作りたいと思っています」(『私の日本音楽史』)

 頼まれるまま、小学校や中学・高校の校歌も引き受けておられる。“民衆が音楽を理解しない”と嘆いても意味がない、こちらから出かけていこうという「音楽出前論」が持論。

 「東京駅コンサート」通称“エキコン”の音楽監督を引き受けたのも、お高くとまったクラシックを、もっと大衆に近づけたかったからである。これは十三年も続いた。“正装して拝聴する”ものだったクラシックに、仕事帰りの人たちが、くつろいで耳を傾け、疲れをいやす姿。團さんは目を細めて見つめていたそうである。私が民音を創ったのも同じ思いからだった。「庶民が下駄履きで行けるコンサート」が私の夢だった。そうならないと、いつまでたっても「借り着」のような文化のままで、日本人の生活に溶け込まない。「借り着」は、いつ、ほかの「軍服」とかに取ってかわられるかわからない。

おじいちゃん!なぜ!?

團さんの気骨は、おじいさんゆずりなのかもしれない。團さんが、三井財閥の大黒柱であった團琢磨男爵(日本経済連盟会会長)のお孫さんであることは有名である。男爵の信条は「事業は事業それ自体が目的であって、金もうけのためではない。金もうけがしたいなら、相場でもやるがいい」。さすがに昔の経済人の考え方は、本筋である。

 そんなおじいさんの家で、團さんは幼い日を過ごした。家の西の外れから「原宿、原宿」、東からは「千駄ケ谷、千駄ケ谷」という駅員の声が聞こえるほどの敷地があった。ちなみに、お生まれは大正十三年。「信濃町の慶応病院の二階の角の産室で生まれた」そうである。

 日本経済の大御所も、團さんにとっては、白髪の優しいおじいさん。幸せな幼年時代だった。そこへ「いきなり往復ビンタを受けるような」事件が起こった。右翼結社・血盟団の青年が、おじいさんを銃で撃ったのだ。即死だった。昭和七年の三月五日である。「五・一五事件」の二カ月前であった。

 あの素晴らしいおじいちゃんが、なぜ? なぜ! 七歳の少年は、日本の社会というものの正体に、だんだん目を開いていく。そのころから、荒々しい軍靴の音が、他の美しい音を押しのけていった。

「この非常時に何だ!」

 そんな世相に逆らって「音楽をやろう」というのだから、大変である。東京音楽学校(現・東京芸術大学)に入ったのは昭和十七年の春というから、戦時下も戦時下。世間の目は「この非常時に何だ」と「白眼視」そのものである。ピアノを弾いていると、非国民と言われて、窓から鼠の死骸を投げこまれた。軍事教練。勤労動員。勉強の時間も、どんどん削らそれでも、いや、だからこそ、「美しい音」への情熱は燃えた。

 「戦争は何年かかるにしても一時的なものであって、いずれは終る。しかし、『音』は戦争が続こうが終ろうが鳴り続ける」「『音楽』は世界語、国際語なのだ。だから勉強するのだ」(「私の履歴書」)迫害の中だから、残ったのは本気の人間だけだった。作曲の芥川也寸志氏、指揮の森正氏、オペラの砂原美智子氏、シャンソンの石井好子氏……戦後の日本音楽界を支える綺羅星が、最悪の環境に耐えて、飛翔の日を待っていた。

 昭和十九年秋、兵役。團青年は陸軍に入隊した。軍楽隊である。担当の楽器は、上官から、身体検査だけで決められた。「やせ過ぎだ。何かを吹けば肺病になる。小太鼓!」“国民の士気高揚のため”の演奏行進、そして新兵への陰惨なリンチと空襲とに明け暮れる日々。

 年末のある朝の出来事を、随筆集『パイプのけむり』に書いておられる。團青年は生涯の友である芥川也寸志さんと日課の雑巾がけに励んでいた。水は冷たい。足は裸足。團さんがバケツの水を替えて戻ってくると、雑巾を投げ出した芥川さんの姿があった。階下のラジオから聞こえてくる唱歌に耳を澄ませていたのだ。『海』の曲だった。

 「イッテミタイナ、ヨソノクニ、か。うん、外界には自由があるんだなあ」

 そう言った芥川さんの目から涙が溢れ出た。自由……。遠い夢。自分たちにはかなわぬ夢……。

 涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、二人は床を拭き続けていた。

創大生はすがすがしい

 團さんには、海が似合った。自由。活力。自分を小さな専門に閉じ込めない闊達さ。

 團家は、七百余年前、南宋が蒙古に滅ぼされた時に、中国大陸から海をわたって九州にたどりついた一族だという。海は團さんにとって、わがルーツへとつながる道であり、せせこましい日本から自分を解放する扉だったのだろうか。いつも海が見える場所を仕事場にしてこられた。かつての葉山のお宅も海のそば。そこに創価大学の学生と教員がおじゃましたことがある。昭和四十九年の六月ころ。大学の「愛唱歌集のレコード」に推薦文をもらおうというのである。何とも図々しいお願いである!

 しかし團さんは、いやな顔ひとつせず、応接間のプレーヤーでレコードをかけ、創価大学学生歌などを聞いてくださった。創価大学のことも、あれこれ質問し、建学の精神も尋ねられたようだ。「うーん、なるほど。すごい理想ですね。みなさんが頑張っていくんだね」「あなたたちのような素晴らしい学生さんが集まっているから、こういう曲ができるんでしょうね」

 もちろん励ましとして言ってくださったわけであり、ありがたいことであった。その場で、すらすらと、こんな推薦文を書いてくださった。「創価大学が出来て三年有半。その間に若い真面目なエネルギーが胸の中から歌い出でた音楽の数々が収められたのが、このレコードだ。不潔な、唇にするのも恥ずかしい歌が巷に氾濫している昨今、すがすがしいこのレコードは、日本の青年の強い意志と、世に毒されぬ正しさを歌い上げて余すところ無い。真面目で、すがすがしい青年達の心を映したこのレコードを奨したい」

 温かい方だった。親しい芸術部の方に「鼓笛隊に曲を書いてあげたいね」とも言われていたという。

 昭和四十六年、私の小説『人間革命』に推薦文を寄せてくださったこともある。

「へどろ文化」の汚染

 レコードの推薦文にも表れているが、團さんは、日本の文化の俗悪化に、本気で腹を立てておられた。戦争であんな目にあって、やっと手にした自由じゃないか。それを日本人は、こんなくだらないことに使うのか?テレビでは醜怪な「軽佻、浮薄、おどけ、下品、悪ふざけ」のオンパレード。

 「何の役にも立たぬ下司な興味を中心とした」毒々しい雑誌。

 大人自身が、そんな「へどろ文化の中にどっぷりと浸りながら、子供の苛めを何とかせねばと心配」している「奇怪な光景」。何でも「人のせい」にしてすませる卑しい社会。子どもが自分の不注意でケガをしてさえ、学校が悪い、だれそれが悪いと、ねじこんでくる親。軽薄社会。

 ああ、もっと美しいものを!もっと澄んだ心の響きを!魂を揺さぶる生きた文化を!

 日本人は早く「自己改造」「自己改革」しなければ、またもや全体主義の方向へ雪崩を起こすのではないか?何にせよ「尻馬に乗りやすく」、自分がなく、個性がない。卑屈に人の顔色ばかり見ている。何という付和雷同の風土だ!音楽についても、西洋を模倣しただけの「借り物」の音楽ではだめなんだ。かといって民族の自己顕示のような後ろ向きの音楽でもしょうがない……。

 戦後は無一文から出発した團さんだが、どんな苦労をしてでも「人類全体の財産となる日本の音楽」を世界に発信するのだという使命感がエンジンだったと、私は思う。社会を人体にたとえれば、政治や経済は体を支える「下半身」。「上半身」は、学問・芸術・文化であり、なかでも学問が頭脳なら、千変万化の表情をみせる「顔」は芸術だ。そういう誇りをもっておられた。

 私もそう思う。国だって、「顔」が大事なのだ。芸術家が大事なのだ。みんなで援助するのが当たり前なのだ。第一、世界の人を感動させる現代文化がないようでは、「顔のない」不気味な日本と見られてもしかたがない。その意味で、世界各国で繰り返し上演されているオペラ「夕鶴」を持てたことは日本にとって幸せである。

 日生劇場での握手の後、團さんは、民音の活動にも何回も協力してくださった。

 主なものだけでも、「夕鶴」(一九六九、七二、七三、七八年)、ファミリー劇場「ききみみずきん」(九〇年)、氏の音楽人生の集大成となった昨年の「DAN YEAR 2000」では、オペラ「ちゃんちき」の公演……。

鳥取の文化祭で再会

 團さんと再会したのは、鳥取の倉吉だった。

 昭和五十九年の「鳥取青年平和文化祭」である。團さんはこの日(五月二十日)、倉吉で講演の予定があり、たまたま同じ日に文化祭があるのを知って、「学会とは私もご縁があるから」と、すすんで出席を希望されたのである。

 「ご多忙のところ、わざわざありがとうございます」と、お迎えすると「いつも盛大で素晴らしいですね!」と、二十年ぶりの再会を喜んでくださった。

 「大げさになって、かえってご迷惑になってはいけませんから。目立たないところで」と、私の一段後ろで、演技を見守っておられた。和子夫人もご一緒だった。

 かつて国立競技場での東京文化祭にも来られた團さん。鳥取の文化祭を報じる聖教新聞には、こんな激励の声が載った。

 「こうした催しには東京で一度出席させていただきましたが、変わらない青年のエネルギーには感動致しました。これは社会の模範としなければならないと思っています。地方の時代を象徴する明るさと地方色豊かな演技と歌は非常によかったと思いますし、ホッと致しました」

 「お見送りを」と申し出たのだが、「いえいえ、結構です。大勢のお客さまが来ておられますし、どうぞご自由に。良かったですよ。素晴らしいものを見せてもらいました」と、温かい声の團さんであった。團さんの師は、日本近代音楽の開拓者である山田耕筰氏。

 私と妻は、山田氏が亡くなった後、夫人の輝子さんと、帝国劇場で懇談していただいたことがあるが、音楽に関しては、とことん頑固な先生だったようだ。團さんは少年時代から師事し、最初に、こう言いわたされたそうである。「やるからには徹底的に、そしてオーソドックスな道を歩くように」

 オーソドックス――正統を歩む。ここに團さんの人生を貫く基調音があるのではと私は思っている。 奇をてらわない。時流に媚びない。駆け出さず、きょろきょろせず、雑音に耳を貸さず、何があろうが、道の真ん中を、まっすぐ前を見て歩く。青空を見て歩く。

 そんなさわやかさこそ、團さんの真骨頂であった。

 蘇州で亡くなったときも、そういう正道を往く途上であった。五十数回目という中国訪問のさなかである。「日中文化交流協会」の会長として、張り切って動かれた。

 「文化的に、朝鮮は日本の兄であり、中国は父である」

 そう言って、この文化の恩人を侵略した野蛮さに怒り、その史実をごまかそうとする日本人の小ずるさを唾棄しておられた。「中国とつき合うときは、人間の真実でつき合わなければ。いいかげんな態度は、見すかされるだけだ」と、真剣であった。

 「これから、もっともっと仕事をしますよ」と、いつも未来への旅人だった。

 その意味で、中国の旅で亡くなるとは、何と不思議な、何と美事な人生の最終楽章の演奏だろうか!

身を削って音楽を織り

 あの「夕鶴」の「つう」のように、團先生も、自分の身を細らせ、自分の命を削りながら、一音符一音符に心血を注いで、美しい布を織り続けた。しかし、「つう」が愛した「与ひょう」は、欲に心を曇らせて、かつての素朴な清らかさを失っていく。

 「あんたはだんだんに変わっていく…」「あたしを矢で射たような、あの恐ろしい人たちとおんなじになっていってしまう…」

 「おかね。おかね。どうして、そんなに『おかね』が好きなの?何のためなの…」

 そう嘆きながら、「つう」が空へ帰っていったように、團さんも日本が心配だ、心配だと憂えながら逝かれた。「わが故里は東アジアの海と空」――團さんは今、大鳳のような翼を広げて、果てなく明るい大空の上から、アジアの一角に浮かぶ日本の行く末を見つめておられるのではないだろうか。

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(池田先生の御稿は、聖教新聞社様のご好意により掲載させていただいたものです。無断で他に転載される事を禁じます。)

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