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たばこの歴史 |
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| <連載> |
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第1回 それはアメリカで生まれた |
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第7回 キセルの文化論 |
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第2回 たばこは万能薬? |
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第8回 カルメンがなぜシガレットなのだ! |
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第3回 たばこは世界を巡る |
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第9回 デューク大学をつくった男 |
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第4回 いじめに会う |
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第10回 「天狗」 vs.「ヒーロー」 |
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第5回 ジョン・ロルフとポカホンタスの恋 |
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第11回 禁酒法と禁煙法 |
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第6回 優雅にクシャミ |
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第1回 それはアメリカで生まれた |
タバコ(ニコチアナ)属植物は,植物塩基(アルカロイド)のニコチン,ノルニコチン,アナバシンのどれかを持つナス科の植物です。
現在,世界で栽培され利用されているタバコ植物は,ニコチアナ・タバカムとニコチアナ・ルスチカの2種だけですが,これまでに全部で66種が確認されており,そのうち45種が南北アメリカ大陸とその周辺部に生育していました。その他,オセアニアで20種見つかり,アフリカのナミビアでも1種発見されていますが,これらは,アメリカ,アフリカ,オセアニアが陸続きだった大昔に渡ったもので,タバコ属植物誕生の地は,やはりアメリカと考えられています。従ってたばこの文化もアメリカで生まれました。 |
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古代の人々の生活は,当然ながら自然の営みと一体のもので,人々は自然と共生し,自然を敬い畏れ,自然の中に神や精霊たちが宿ると信じていました。そして,神や精霊たちとコミュニケーションを図るためにシャーマンたちは,チョウセンアサガオ,メスカル,ピプタデニアなどのような幻覚性の強い様々な植物を利用していましたが,タバコの薬理作用はこれらよりは遥かに穏やかなため,精霊たちの大好物,彼らへの最良の贈り物と考えられていました。アメリカ先住民のたばこの使用例についての報告やたばこに関する神話の中で圧倒的に多いのは,葉たばこやその煙を精霊たちに供えて彼らをなだめ,彼らから力を授かり,彼らの好意を当てにする,といったもので,こうした信仰は南北アメリカを通じて広く行き渡っていました。 |
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シャーマンたちは,病人に取り憑いている悪霊にたばこをプレゼントして病気を追い出す「たばこ療法」も行なっていましたし,北アメリカでは,部族間の和睦などの際,儀式用のパイプ「カルメット」(平和のパイプ)で,神とともに喫煙し,政治的な義務や約束事を担保し合っていました。 |
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“たばこは精霊たちの大好物"という確信は,もちろん人間自身の経験に基づくもので,たばこは精霊だけでなく人間自身をなだめ,癒すものでした。そしてこの神から与えられた貴重なハーブを大事に扱い,特別なご馳走品として神様やお客などに差し上げ,自分でも嗜むようになっていました。スペイン人がメキシコ盆地に侵攻した当時,人々は,例えば商人が商用から無事帰省できたときや子供が結婚したとき,子供が生まれたときなど,神殿に特製たばこを供え,祝宴では招待客に,花束,チョコレート,食べ物などとともに特製たばこを振る舞いました。アステカの最後の王となったモクテスマ二世が,夕食の後にたばこを1本取ってその煙を吸い,間もなく眠りについたと,スペイン人の同席者が記しております。また,たばこはよその人を歓迎する貴重な贈り物でした。1492年にアメリカに到達したコロンブスも,まず最初に,親睦の意味を込めてたばこを贈られています。こうして,ヨーロッパ人がやって来るずっと以前からアメリカでは,たばこが創出した他者との出会いを演出し自らも嗜む「癒しとなかだちの文化」が広く普及していたのです。 |
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第2回 たばこは万能薬? |
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コロンブスの後を追って続々と新世界に渡ったヨーロッパ人は,直ぐに先住民のたばこ文化を受け入れ,たばこが疲れを癒し痛みや飢えや渇きを和らげてくれる素晴らしい薬草であるとの確信を深めて行きました。1535年刊のオビエドの著書に,すでにそのことが記されております。そして間もなくヨーロッパにも,たばこは“優れた薬効を持つ薬草”として伝えられました。 |
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コロンブスの航海から半世紀以上経った1554年に刊行されたドドネウスの『薬用植物学全書』に,たばこは「黄ヒヨス」として最初に正確な挿絵つきで詳しく紹介されています。ただしそれより前,1540年代には,たばこはブラジルからポルトガルに薬草として持ち込まれていたようで,『マヌエル王の至福の年代記』の中で,潰瘍性膿瘍,瘻,爛れ,慢性のポリープなどに効き目があるとされ,「聖なる薬草」と命名されています。それを,時のフランスの駐ポルトガル大使ジャン・ニコが1560年に“新世界からもたらされた万能薬”としてフランスに伝えた話は有名で,19世紀になってタバコの薬理作用のもとになる植物塩基が分離されたとき,ニコに因んで「ニコチン」と命名されました。 |
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ニコのあと,スペインの著名な医師ニコラス・モナルデスが,1571年の著書において,それまでにたばこが効くとされていた様々な症状にさらに多くの適応症を加え,“万能薬”との評価を確立しました。これが各国語に翻訳されて,その後19世紀まで
200年以上にわたって世界中に影響力を持ち続けたのです。特に,当時最も恐れられていたペストに対する予防効果があると早くから信じられるようになっており,ペストが大流行する度に,人々は,医師から子供まで,疫病から逃れようとしてたばこを吸いました。なお,この頃のヨーロッパ医学は,まだ2世紀に生まれたガレノス派の体液病理説が基礎となっており,たばこは余分な粘液を排泄する効果があるとされたのです。また,基本4体液の一つである黒胆汁が鬱積するためにおこる憂鬱症(メランコリア)の治療にも喫煙が有効とされました。 |
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このように,たばこはまず医師や本草学者の折り紙つきで,薬草としてヨーロッパに受け入れられ,広まったのですが,同時に喫煙は,疲れや緊張を和らげてくれる手軽な癒しの手立てとして人々の生活の中に溶け込んで行きました。ヨーロッパで喫煙の風習の記録が目につくようになるのは,ニコがフランスにたばこを万能薬として送った時期からそう遠くない1570年頃からですが,人々は,最初から医療効果とリラックス効果を一体不可分のものとして享受したのであり,両者を区分することは土台無理な話でした。しかし,悦楽や慰みにふけることを背徳的な行為と考える人々の間では,たばこの使用はもともと野蛮な異教徒の忌むべき陋習であり,医療行為としてのみ許されるべきであるという主張が直ぐに高まり,その後も,たばこの乱用を戒める声は続きました。 |
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第3回 たばこは世界を巡る |
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アメリカ大陸の先住民のたばこの摂取方法は,やはり喫煙(スモーキング)が一般的でした。ただし,北米では様々なパイプが使われていたのに,南米ではパイプは殆ど普及せず,もっぱら葉巻(シガー)の形で吸われていました。 |
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喫煙の他には,南米から北米太平洋沿岸地方にかけて,たばこを噛んだりしゃぶったりする習慣(チューイング)が広まっていましたし,中南米には,乾燥した葉たばこを粉末状にして鼻から吸い込む摂取の仕方(スナッフ・テイキング)もありました。このようにたばこの摂取方法が地域によって異なっていましたので,カリブ海から中南米に進出したスペインにはシガーとスナッフが伝わり,北米に進出したイギリス,オランダなどにはパイプ喫煙が伝わることになりました。 |
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喫煙の習慣をヨーロッパ中に広める役割を果たしたのは三十年戦争(1618-48)に従軍した兵士たちでした。ヨーロッパ諸国の殆どを巻き込んで戦われたこの戦争で,パイプ喫煙に馴染んでいたイギリス,オランダの軍隊は,ボヘミア(チェコ),ドイツ,オーストリア,ハンガリアからロシアにまでこの習慣を伝えました。疫病の予防になると信じられていたたばこは,兵士たちの必需品となっていたのです。 |
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アジアにたばこがもたらされたのは,ヨーロッパに渡って少し経った16世紀の第4四半期以降のようで,やはり最初は「薬」として伝えられました。スペインは,まずたばこが生育するメキシコを植民地とし,そこから太平洋を横断してフィリピンに到達して,1571年にはマニラを占領してアジアでの基地としました。そのフィリピンからたばこは1601年(慶長6年)には日本に薬として伝えられていますし,ジャワ島などにも同じ頃にフィリピンから伝えられたと考えられています。また,中国でも17世紀初頭には,たばこは呂宋からもたらされた優れた薬効がある薬草と信じられていました。 |
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一方,大航海時代をスペインと競い合ったポルトガルは,ヴァスコ・ダ・ガマが1498年にはインドのカリカットに到着し,1510年にはゴアを,1511年にはマラッカを占領しましたが,たばこの伝播に一役買うのは,ヨーロッパでたばこの使用が普及し始める16世紀末になってからのことで,しかも,その直ぐ後をオランダ,イギリスが追っており,喫煙文化を海路で東に運んだ功績は,むしろパイプ喫煙のオランダ,イギリスの方が大きかったようです。スペインがフィリピンに伝えた喫煙形態はシガーでしたが,フィリピンを除く東南アジアで普及したのは概ねパイプ喫煙でした。ムガール帝国のアクバル大帝は1605年にパイプを試されたと記録にありますので,インドに伝わったのもパイプ喫煙だったようですし,日本でも早くも1609年にはキセルが使われ出していることが確認できます。 |
なお,オスマントルコの歴史書にはイギリス人やヴェネチア人が1600年頃,病気に効くといってたばこを売ったとありますが,この地方では,間もなく独特の水パイプが使われ出し,やがて中近東やインド,中国にまで水パイプが伝わります。
こうして1570年代以降,僅か半世紀の間に喫煙の文化は地球を一周するのです。 |
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第4回 いじめに会う |
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“万能薬”としてヨーロッパに受け入れられ,僅か半世紀の間に地球を一周したたばこでしたが,一方で強い拒絶にも遭遇しました。 |
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最初にたばこに反撃を試みた人物として有名なのが,イングランド王ジェームズ一世でした。王は1604年に,当時すでに国中に普及していた喫煙の風習を,卑しい異教徒の野蛮で不潔な習慣の恥知らずな物真似として非難し,たばこは国民を怠惰にし,たばこのための無益な散財が国力を損なっていると嘆き,たばこ万能薬説にも異論を唱えました。ただし王は,喫煙を禁止するのではなく,たばこの輸入関税を一挙に40倍に引上げ,王室財政に寄与させる方策を採りました。 |
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キリスト教の聖職者たちも,当初からたばこの使用に批判的でした。しかし,新大陸で最初にたばこに馴染んだヨーロッパ人の中には多くの宣教師も含まれており,彼らが本国の教会にスナッフやシガーを伝えましたので,スペインやイタリアなどでは,聖職者のたばこがまず問題になりました。ローマ教皇ウルバヌス八世は1642年に,セビリア司教座大聖堂でたばこを用いた者は直ちに破門するとの教書を出し,インノケンチウス十世は1650年に,サン・ピエトロ大聖堂での使用を同様に禁止しました。ただし,スペインなどでは,ローマカトリックの影響力が強大であったとはいえ,庶民のたばこが全面的に禁止されることはありませんでした。むしろ,宗教的な反たばこの信念が政治権力と結び付いた時,厳罰主義となって現れました。ロシアのミハイル・ロマノフ皇帝は,実父のロシア正教会モスクワ総主教に促されて1633年にたばこを全面禁止とし,違反者の鼻孔を切り裂くなどし,後を継いだアレクセイ皇帝は1655年に死刑を導入しました。 |
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キリスト教の聖職者たちも,当初からたばこの使用に批判的でした。しかし,新大陸で最初にたばこに馴染んだヨーロッパ人の中には多くの宣教師も含まれており,彼らが本国の教会にスナッフやシガーを伝えましたので,スペインやイタリアなどでは,聖職者のたばこがまず問題になりました。ローマ教皇ウルバヌス八世は1642年に,セビリア司教座大聖堂でたばこを用いた者は直ちに破門するとの教書を出し,インノケンチウス十世は1650年に,サン・ピエトロ大聖堂での使用を同様に禁止しました。ただし,スペインなどでは,ローマカトリックの影響力が強大であったとはいえ,庶民のたばこが全面的に禁止されることはありませんでした。むしろ,宗教的な反たばこの信念が政治権力と結び付いた時,厳罰主義となって現れました。ロシアのミハイル・ロマノフ皇帝は,実父のロシア正教会モスクワ総主教に促されて1633年にたばこを全面禁止とし,違反者の鼻孔を切り裂くなどし,後を継いだアレクセイ皇帝は1655年に死刑を導入しました。 |
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異文化に対する拒絶反応は,イスラム主義国で最も強烈に現れ,迫害の時代の刑罰は想像を絶するものとなりました。トルコでは喫煙の風習が伝わると間もなく,アフメット一世は,たばこはキリスト教の悪魔によってもたらされたものでコーランの教えに反するとして弾圧を開始しますが,最も厳しかったのはその子のムラト四世の時代で,違反者は容赦なく処刑され,彼の治世の最後の5年間(1635-40)だけでも約25,000人がその犠牲になったといわれます。インドでは,ムガール帝国の皇帝ジャハーンギールが1619年に,たばこを吸う者は唇をそぎ落とすという命令を出しました。また,ペルシャのアッバース一世が1629年に40頭のラクダにたばこを積んでインドから到着した商人の鼻と耳を切り落としたばこを全て焼却したと,時のイギリス大使官員が報告しています。
日本でも1609年(慶長14)には早くもたばこの禁令が出されており,中国でも,明代末期の1637年(崇禎10)には最初の禁煙令が出されます。しかし日本や中国の禁煙令は,異文化に対する拒絶反応や反たばこの宗教的信念に基づくものではなく,米などの主要穀物の栽培を最優先させ,民生を安定させるという政策がその根拠となっていました。
いずれにせよ,国王も皇帝もスルタンも,この習慣を根絶やしにすることには成功せず,民衆とたばこの結び付きはいよいよ強固になり,やがて禁令も消滅して行きました。 |
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第5回 ジョン・ロルフとポカホンタスの恋 |
たばこはヨーロッパでは,17世紀を迎える頃までには広く普及していましたが,栽培は未だ薬草園の域を出ず,供給はもっぱらスペイン領アメリカ植民地に仰いでいまいた。中でもヴェネズエラ沿岸部やトリニダード島などが良質の葉たばこを産出するようになりましたので,オランダやイギリスがスペインの目をかい潜って盛んに密貿易を働きました。これに業を煮やしたスペインは,1606年にヴェネズエラでのたばこ栽培を向こう10年間禁止してしまったのです。そのためヨーロッパでたばこの値段が一段と上昇し,これが他の地方の新産地開発を刺激しました。ちょうどこの時期にたばこの有力な産地として台頭してきたのが北米イギリス植民地のヴァージニアでした。
イギリスの北米植民地ヴァージニアは1607年に建設されましたが,当初は,さしたる物資を産出できず,厳しい飢えと寒さのために殆ど失敗に終わろうとしていました。これを救ったのが,ジョン・ロルフの葉たばこ栽培の成功でした。ヴァージニア地方の先住民もたばこを吸っていましたが,品質の劣るニコチアナ・ルスチカ種でした。ロルフはこれに代えて西インド諸島のトリニダード島から入手したニコチアナ・タバカム種を試作したところ,土壌や気候に適合し,良質の葉たばこを収穫でき,1613年には僅かながら本国に輸出して好評を得ました。以後生産量は急速に拡大し,ジェームズ一世も,1619年にイングランドでのたばこの栽培を禁止し,植民地の新しい産業を保護することにしました。このヴァージニアの成功に倣ってバミューダ諸島がこれに続き,メリーランド,カロライナの植民地も葉たばこ栽培に活路を求めました。チャールズ一世が“全てが煙の上に築かれている”と嘆いたように,北米イギリス植民地の基礎はたばこによって築かれたのです。 |
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なお,ヴァージニア入植地に到着して間もなく妻を失ったロルフが,当地で強い勢力を保持していた先住民の酋長ポーハタンの娘ポカホンタスと再婚したロマンスは有名で,これにより,その後8年間,先住民との間で平和が保たれました。しかし,ポカホンタスはロルフと共に訪れたイギリスで亡くなり,ヴァージニアに戻ったロルフも,先住民との抗争で1622年に亡くなったと伝えられています。北米イギリス植民地と並んで
,南米ブラジルのバイア地方も葉たばこの産地として頭角を現してきました。またヨーロッパでもオランダが比較的大きなたばこ産地に成長します。こうしたたばこ産地の台頭は
,新しい品種の導入だけではなく,耕作技術や葉たばこの乾燥処理技術の改善の賜物でもありました。 |
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葉たばこは傷みやすく,遠距離輸送中にかびが生えたり虫に食われたりしますので,当初は,陰干しにした葉たばこを縄状にしたロールたばこや
,紐できつくぐるぐる巻きにしたキャロットの形で船積みされることが多かったのですが,
しばらくすると,たる詰め保存が可能となり,交易の幅も広がりました。 |
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ただし,かつて世界のたばこ資源を独占していたスペイン領アメリカ植民地は,ハバナ葉がシガーの原料としての名声を維持し続けますが,二度と昔の独占的地位を回復することはありませんでした。 |
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第6回 優雅にクシャミ |
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ヨーロッパに限らず,パイプ喫煙がまず一般民衆の間に広まり,主流になりました。ただし,薬としては,スナッフ(嗅ぎたばこ)も最初から推奨されていました。新大陸に渡った聖職者たちがスペインの教会に伝えたのも主にスナッフでした。 |
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また
,フィレンツェのメジチ家出身のフランス王妃カトリーヌ・ド・メディシスは,偏頭痛に悩まされていたのですが,ジャン・ニコがフランスに伝えたたばこのスナッフによって軽癒したので
,国王である自分の息子や家臣たちにも奨め,そのためたばこは「王妃の薬草」とも呼ばれたほどでした。 |
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その後もスナッフに対する信望は衰えず,スナッフによるクシャミが体に良いとされ,ルイ十三世の時代(1610-43)以降,フランスの宮廷社会を中心に急速に広まり
,ほかのヨーロッパ諸国の上流階級もこれに倣いました。さらにこの上流社会の風習は次第に庶民層にまで浸透して行きましたので,続く18世紀は,フランスはもちろんヨーロッパ中がスナッフの時代になったのです。すでにたばこの専売制を実施していたフランスやオーストリアでは
,フランス革命直前,たばこの売上げの80%以上がスナッフになっていました。 |
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スナッフは上流社会から広まった風習だけに,粉末状にしたたばこには様々な芳香剤などが配合され,それを入れて携帯する容器は次第に贅沢なものとなり,貴族たちは
,金銀,象牙,磁器などの素材に宝飾を施した豪華なスナッフボックスを競って所持するようになりました。
また,吸い込む仕草にも優雅さが求められ,スナッフを吸い込んだときに出る軽いクシャミの仕方のマナーまでありました。ただし,庶民の持つ容器は殆ど木製の粗末なもので
,スナッフも,手の甲のくぼみに取り分けて勢い良く鼻から吸い込んでいました。 |
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ヨーロッパで流行したスナッフは中国にも伝えられ,やはり宮廷社会を中心に盛んに用いられました。そして中国でもその容器は凝ったものになり,陶器,貴石
,ガラスなどで作ったスナッフボトル(鼻烟壺)が多くの人々に愛されました。ただし,日本ではスナッフの習慣は殆ど見られませんでした。
一世を風靡したスナッフでしたが,やがて市民革命の時代を迎えると,急速に廃れて行き,それまで下層階級のたばことして疎んじられ,一時需要が大きく落ち込んでいたパイプたばこが復活してきます。 |
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プロイセンやオーストリアでは街頭や公共の場所での喫煙が禁止されていましたが,人々は,疫病が流行する度に禁止令の一時凍結を嘆願してきました。そしてついに1848年の三月革命の際
,民衆は喫煙の自由を再び勝ち取ったのです。
パイプたばこの復活と同時に,それまでスペインおよびその植民地のたばこに止どまっていたシガーが,革命の時代らしく,男たちの間で流行するようになりました。ヨーロッパ中にシガーを広める切っ掛けとなったのは
,ナポレオンのイベリア半島侵攻(1808-14)でした。そしてシガーは,時代を反映して進歩の印となり,国民主権や共和制を表象するたばことなりました。カール・マルクスもシガー愛好者であったことが知られています。 |
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第7回 キセルの文化論 |
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わが国にもシガーが伝えられた形跡はありますが殆ど広まらず,最初からキセルと呼ばれたパイプを使っての喫煙がもっぱらでした。そのキセルも,近世風俗画などに描かれている初期の頃のキセルは大分大ぶりで
,長さは優に1メートルを超すように見えます。こうした大ギセルを持ち歩くことが,まず「かぶき者」と呼ばれた伊達男などの間で流行しました。1609年(慶長14)の最初のたばこに対する禁令は
,かぶき者の取締りのために出されています。以後幕府は,喫煙を異国から伝わった無益な風習として非難し,たばこの栽培や売買までも禁止する法度を度々出しますが効き目がなく
,禁煙令はわが国では実質15年位で沙汰止みになりました。そして禁煙令に代わって,寛永19年(1642)の大飢饉を契機に,本田畑でのたばこの耕作を禁止ないし制限する御触書が出されるようになります。しかしこれもあまり守られず
,幕府からのたばこ耕作規制令も18世紀に入ると見られなくなり,諸藩の中には産業としてたばこの栽培を奨励するところも出てきます。 |
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最初の頃かぶき者が持ち歩いたキセルは大袈裟なものでしたが,一般の人々が使うキセルは50センチ以下の短なものとなり,火皿も小ぶりになりました。
小さな火皿に刻みたばこを一つまみひねり込み,三,四回吸って灰をポンと捨てる一服の間が,日本人の生活のテンポに合っていたのでしょう。煙の量もヨーロッパのパイプやシガーに比べて格段に少なく
,そのためか,わが国ではヨーロッパのように,喫煙が怠惰や不健康を意味するようなことはあまりありませんでした。むしろ,「一服する」「たばこにする」は
,生活の句読点としての小休止の代名詞となり,庶民の間に広く定着していました。 |
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江戸時代後期の山東京山は,自著の滑稽本に『春宵一服煙草二抄』というタイトルを付けております。屋外での一服を楽しむための携帯用のたばこ入れも発達しますが
,これは,武士の印籠の向こうを張った庶民の装身具となり,男たちはその粋を競い合いました。 |
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葉たばこも,わが国に伝えられてから気象や土壌条件に適合して,「在来種」と呼ばれる葉肉の薄い品種になり,これはキセルに詰めて吸う刻みたばこを作るのに適しました。初めの頃は
,乾かした葉たばこを自分で刻んで吸っていましたが,葉たばこを1枚1枚丁寧にのばして圧展して包丁で髪の毛ほどに細く刻む技術が発達し,都会の人々は専門の刻み職人の刻んだたばこを買って吸うようになりました。 |
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たばこ盆もわが国らしい喫煙具といえましょう。
パイプ喫煙の文化を発展させたイギリスやオランダの古い絵画などを見ても,たばこ盆のようなものはあまり見当たりません。わが国のたばこ盆は,香盆を転用したものといわれるように
,主人が独り占めする物ではなく,最初から人をもてなすセットで,客にはお茶より先にたばこ盆が出されました。 |
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たばこ盆には火入れや灰落しとともにキセルを2本添えるのが習わしで,1本はお客用でした。茶道では,腰掛待合に用意した円座の上にたばこ盆を乗せて客を待ち,茶室では正客の座る位置にたばこ盆を置いてもてなしの心を表します。昔は
,すすめられたたばこを頂戴する際の作法ありました。 |
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第8回 カルメンがなぜシガレットなのだ! |
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19世紀に入ってシガーやパイプたばこが貴族的なスナッフを追い落としますが,シガーの流行もそう長くは続きませんでした。後から追い上げてきたシガレットに直ぐに抜かれてしまったのです。シガレットは
1853-56年のクリミア戦争の頃から流行りだしますので,クリミア戦争のさ中に誕生したともいわれていました。戦争でパイプを壊してしまった兵士が,大砲の火薬を包む薬包紙でパイプ用の刻みを巻いて吸ったのが始まりだというのです。そこで
,ビゼー作曲の歌劇「カルメン」でたばこ工場の女工たちがシガレットをふかしながら登場するのはおかしいという意見があります。原作であるメリメの小説「カルメン」はクリミア戦争前の1845年に発表されているからです。 |
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ただし,シガレットはクリミア戦争で誕生したというのは正しくありません。イタリア生れでヨーロッパの宮廷社会を渉猟したカサノヴァの『回想録』に,1767年にマドリッドに向かう途中
,安宿の亭主が紙で巻いた「シガリート」を吸う場面が記されていますし,ゴヤが1778年に描いたゴブラン織りの下絵「凧揚げ」の中で,一人のマホ(伊達男)がシガレットを吸っています。 |
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また,小説「カルメン」の中にも紙巻きたばこパペリトが出てくるので,フランス人のメリメも既に知っていたのです。実は,スペイン領アメリカ植民地ではもっと以前からパペリトが吸われていて
,17世紀中葉にはスペインにも伝わり,さらにクリミア戦争の頃までには近東やトルコからロシアにまで広がっていたのです。 |
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それにしても,カルメンが働いていたとされるセビリャのたばこ工場ではその頃確かにシガーを作っていたのですから,なぜカルメンがシガレットなのでしょうか。これは
,当時急速に進行していた産業革命と関係があるかも知れません。 |
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この頃から産業の機械化と高速化のテンポが早まり,人々の生活にもスピードが求められ,緊張が増してきます。そこで人々は,パイプやシガーのようなゆったりとした喫煙ではなく
,もっと手軽に何時でも楽しめるたばこを求めるようになったと考えられます。ビゼーが「カルメン」を作曲した1870年代は,産業革命の進展により社会が根底から大きく変わりつつあった時代でした。たばこ工場の女工たちには
,すでにシガーよりシガレットこそ相応しかったのかも知れません。シガレットは,近代工業化社会に生きる人々が求めていたたばこだったといえましょう。シガレットの需要は
,19世紀後半から急速に伸びて行ったのです。
当時のシガレットはまだ手巻きで,手巻き職人の多くは先進地のロシアや東欧などからやって来ました。また,紙の質も悪く,燃える時にいやな匂いがしましたので,庶民のたばこと見られていました。しかし
,この頃から良質のライスペーパーが工業的に生産できるようになり,また,手巻きよりも各段に効率のよいシガレットマシンも1880代には実用化の段階を迎えます。さらに
,シガレット原料として最適な葉たばこに仕上げる熱風送管乾燥(フルー・キュアリング)がアメリカで開発されます。こうして,シガレットの大量生産の技術的な基礎が確立され
,たばこ産業における産業革命がシガレットを軸に展開されて行き,「シガレットの時代」を迎えるのです。 |
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第9回 デューク大学をつくった男 |
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シガレット産業の工業化をリードしたのは米国でした。米国にもヨーロッパの流行は直ぐに伝わり,シガレットは1850年頃から流行りだします。しかし,手巻きによる製造では限界がありましたので
,南北戦争(
1861-65)後,巻上機の開発がいろいろ試みられました。そのなかで,画期的な巻上機を開発したのがJ.A.ボンサックでした。この巻上機は1881年に特許を取得しますが
,これは,熟練した手巻き職人の約50倍の能力がありました。いち早くこのボンサック式巻上機に注目し,有利な条件で導入に踏み切ったのが,父ワシントン・デュークとともにたばこ製造業に挑戦していた若きジェームズ
B. デュークでした。 |
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デュークは,機械化により製造の態勢を整えるとともに,税制上の商機を捉えて一挙にシガレットの売上げを拡大し,さらに巧みなマーケティング戦略を駆使して瞬く間に米国最大のシガレットメーカーにのし上がって行きました。その上で
,他の4大シガレットメーカーに併合を働き掛け,1890年にアメリカンタバコ社を設立し,シガレット市場をほぼ独占するに至ったのです。ただし当時のシガレットのシェアは
,米国の製造たばこ全体の僅か数パーセントで,全体の約半分を占めていたのが「プラグ」と呼ばれる噛みたばこでした。そこでデュークは,シガレットで稼いだ利益を元にプラグたばこ業界に挑み
,P.ロリラード社,リゲット&マイヤーズ社,R.J.レイノルズ社といったプラグたばこの大手を次々と買収・併合して行き,この分野でも短期間のうちに独占的地位を築き
,さらに,パイプたばこなども支配下に収めて,たばこ王と称されるようになりました。 |
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デュークは,米国の全たばこ産業をほぼ手中に収めると同時に海外進出も企て,1901年にはイギリス本土への上陸を果たし,猛烈な市場攻撃を仕掛けます。これに対しイギリスの主立ったシガレット企業は合同してインペリアル社を結成して防戦に努めましました。この熾烈を極めた米英たばこ戦争は約1年間続きましたが
,結局,両社は和解して米英相互不可侵協定を結び,世界制覇のためには共同出資の別会社BAT社を1902年に設立し,デュークが社長に就きました。このBAT社がその後世界一のたばこ会社に発展して行きます。 |
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しかし,デュークの強引なやり方は世間の批判を浴びるようになり,米国政府が反トラスト法に抵触するとして提訴に踏み切り,ついに1911年にアメリカンタバコ社の解体命令が出されます。その結果
,かつて併合されたリゲット&マイヤーズ社,P.ロリラード社,R.J.レイノルズ社がアメリカンタバコ社から再独立しました。また,米英相互不可侵協定も無効とされましたので
,間もなくアメリカンタバコ社は英国に再上陸し,BAT社も米国にB&W社を設立します。こうしてこの時期に顔を揃えたこれらのたばこ会社が,その後,世界的な多国籍企業に発展して行き
,これらの会社に新興のフィリップモリス社やロスマンズ社を加えたたばこ多国籍企業群が,1974年には,社会主義国・専売国を除く世界のたばこ市場の約78%を押さえるまでになるのです。
なお,デュークは,反トラスト法違反の判決を受けたあと渡英しますが,1923年に帰国して,郷里のデューク大学設立に尽力し
,その生涯を終えます。 |
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第10回 「天狗」
vs.「ヒーロー」 |
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明治期を迎えると,それまで刻みたばこだけであったわが国にも外国たばこが入ってきます。当初の外国たばこはシガーが主で,シガレットの輸入実績が政府の統計に計上されるのは
,欧米でもシガレットが流行りだした頃の明治12年(1879)からでした。それでもシガレットは開港場などでは早くから見られ,わが国でもシガレットを試作する者が現れて
,明治10年頃からは国産シガレットも出回るようになりました。 |
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明治20年代になりますと,そうした中から「天狗たばこ」の岩谷松平や「牡丹たばこ」の千葉松兵衛などが一歩抜け出してきます。ただし,製品は紙のマウスピースの付いた「口付紙巻きたばこ」で
,製造方法は手巻きでした。これに対し,最初から米国流の「両切紙巻きたばこ」に挑戦し,売上げを伸ばして行ったのが村井吉兵衛でした。村井は,原料に香料を添加するなどアメリカンシガレットの製法を模索し
,また巻上機の導入も試みます。そして,米国産葉たばこを配合した「ヒーロー」を成功させ,短期間のうちに大メーカーにのし上がりますが,その米国産葉たばこの買付けの折にアメリカンタバコ社のデュークと接触することになります。そして
,明治32年(1899)にアメリカンタバコ社と提携し,資本金折半で株式会社村井兄弟商会を設立し,ボンサック式巻上機も導入しました。 |
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しかし,アメリカンタバコ社との提携とは,世界制覇を目指すデュークにとっては日本への進出でした。アメリカンタバコ社と手を組んだ村井は,積極的に攻勢に出て
,岩谷や千葉などの先行メーカーから次々と市場を奪って行きます。この時の岩谷と村井の宣伝合戦は人々の耳目を驚かしましたが,国産葉には無い優れた味を持つ米国産葉を配合し
,近代的な巻上機を導入して大量生産態勢をいち早く確立した村井は,デューク流のマーケティングも取り入れて,次第に他を圧倒して行き,明治35年(1902)にはシガレット市場の約3割を制するまでになります。ところが
,明治35年になり,アメリカンタバコ社の海外事業を引き継いだばかりのBAT社から増資の提案があり,村井はこの増資に |
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応ずることができず,増資分をBAT社が一手に引き受けたことにより,資本バランスが崩れてしまいました。こうして村井兄弟商会の経営権はBAT社が握ることになったのです。一方
,わが国では,日清戦争の戦後経費調達のため明治31年(1898)から葉煙草専売法が施行されていましたが,明治37年(1904)に日露戦争の軍費調達のため
,製造専売を含む煙草専売法案が帝国議会に上程されます。そしてその際,英米たばこトラスト(BAT社)から民族資本を守るという大義名分が加わって同法案は成立し
,以後80年間続くたばこ専売制度がスタートしたのです。
専売制度の導入によりわが国から締め出されたBAT社は,その後も決して諦めてはいませんでした。第二次世界大戦後深刻なたばこ不足に陥ったわが国に対し,BAT社はわが国の専売制を請負う提案を行っています。この時はGHQがこれを認めませんでしたが
,1970年代に入り,貿易の自由化,経済の国際化が進む中で,たばこ多国籍企業群からのたばこ市場開放要求が強まり,ついに専売制度は昭和60年
(1985) に廃止されたのです。 |
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第11回 禁酒法と禁煙法 |
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たばこは19世紀に入ってからも人々の医学的な信望を失っておらず,疫病の予防に効果があると信じられていたほか,溺れ掛けた人を蘇生させるために船舶にはたばこの浣腸器が常備されていました。しかし
,さすがにこの世紀の半ば頃からは万能薬としての信仰は次第に希薄化して行き,反対に,社会改革運動家たちによるたばこ反対運動が盛んになって行きます。そして,かつてたばこが効くとされた疾病が
,そうした人々によってそのままたばこによって引き起こされる疾病とされるようになりましたが,そうした疾病には,狂気,癲癇,性的不能,涎垂らしなども含まれており
,やはり科学的な裏付けに欠けていました。1828年には,たばこに含まれている植物塩基としてニコチンが分離・抽出され,その毒性の強さが確認されましたが,たばこ反対運動にそれ程の勢いを与えませんでした。
しかし,19世紀後半からシガレットが流行し始め,パイプやシガーやプラグ(噛みたばこ)の時代にたばこから一時遠ざかっていた婦女子もこれを手にするようになると
,反たばこ運動は反シガレット運動として,特に米国において,禁酒運動と連動しつつ激しい展開を見せるようになります。反シガレット運動の先頭に立ったL.P.ガストン女史も婦人キリスト教禁酒同盟に関係しており
,1920年の大統領選挙に反たばこを掲げて立候補すると宣言したほどです。そして1896年から1921年までの間,反シガレット法制定の嵐が全米を吹き荒れ,殆どの州で何らかの規制法が成立しました。しかし
,禁酒法のようにアメリカ連邦議会を通過することには成功せず,また禁酒法の廃止(1933)よりも前に,1926年頃までには各州の反シガレット法は次々と廃止されて行きました。 |
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第二次世界大戦中は影を潜めていた反たばこ運動でしたが,戦後,肺がんの増加傾向が見られるようになると喫煙との関係が疑われ,様々な実験も行われます。これに伴って
,フィルター付きのシガレットに対する需要が増大し,各たばこメーカーは競ってフィルター付きの製品を発売し,1954年以降,フィルター革命と呼ばれる市場の急激な変化が起きました。 |
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その後,大規模な疫学調査(統計的な解明)の結果に基づいて,1962年にイギリス王立内科医師会が,続いて1964年にアメリカ公衆衛生総監の諮問委員会が“シガレットの喫煙が肺がんによる死亡の増加の要因と考えられる”との報告を出すと
,喫煙の健康に対する人々の懸念は一層高まりました。そして,発がん物質はタール中に含まれているとされると,各たばこメーカーは低タール製品の開発に精力を傾け
,その後もシガレットの低タール化の傾向は続いています。なお現在では,がん発生のメカニズムの解明は遺伝子レベルに移っており,その複雑な仕組みが次第に明らかになりつつあるようです。 |
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ともあれ,たばこは
500年前に新世界から伝えられ,最初は「薬」として広まりましたが,また,いこいや安らぎ,愉しみなど,人々の生活に様々な彩りを添え,長い間世界中で愛されてきました。人々は
,何か益するところがあったからこそ昔からたばこを嗜んできたのであり,これはまさに「文化の歴史」だったということができましょう。 |
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